KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

夕学レポート

2008年12月15日

「身を立て 名をあげる」 磯田道史さん

中世の職人や芸能民など、農民以外の非定住の人々である漂泊民の世界を明らかにし、それまで通説とされていた中世の日本像を覆した網野善彦さんは、「網野史観」と呼ばれる学説を世に問いかけました。
「百姓は農民ではない」
百姓身分に属した人々は、農民だけではなく商業や手工業などの多様な生業の従事者であったことを、網野さんは強調しました。
磯田先生は、近世の武士身分に属した人々について、網野史観とよく似た通説否定をされました。
「武士の世界は、けっして一様ではない」
「家老から足軽までの多様な人々を、武士というひとくくりの身分で理解することは間違いである」

磯田先生によれば、近世の武士には、同一身分内に多階層に及ぶ厳格な階級制度があったそうです。全人口の7%とも10%とも言われる武士層ですが、そのうちの60%は足軽・中間と言われる下士層であり、彼らは普段は農地も耕すアルバイト武士だったとのこと。農家の次男・三男で体格の良い肉体派を選び、荷物運びや槍持ちとして雇用する、今でいうところの非正規社員でした。
また、江戸時代が士農工商の身分制度によって成り立つ単一ピラミッド社会であるという常識も間違いだと磯田先生は言います。
むしろ、武士のピラミッド、町人のピラミッドというように、高さの異なる複数の三角形が並列して存在していました。武士階級の最下層に位置する足軽・中間と町人ピラミッドの頂点に立つ大庄屋とでは、経済的にはもちろん、家格でもはるかに大庄屋の方が上に位置していたとのこと。
明治維新の本質は、マルクス的な「階級闘争」ではなく、西郷、大久保、伊藤らの下層武士層による、将軍家や大名層など武家支配層に対する「階級内対立」である、と言った方がふさわしいというのが磯田先生の弁です。


さて、そんな近世武士の実像を確認したうえで、磯田先生は武士身分の下層にあって、足軽・中間よりは上に位置する「徒士(かち)」と呼ばれる下級武士層に注目をしています。
足軽・中間は、アルバイト武士で出入り自由な流動層であったのに対して、「徒士」以上が世襲を許される、代々の武士階級でした。
しかしながら、「徒士」は、結婚もままならないほどの、僅かな俸禄の代償に、厳格な階級規律に縛られることを宿命づけられていました。
「徒士」層は、藩の経営を支える実務官僚として、代々の職務を受け持っていましたが、実際に、登城して代々の職務に就けるかどうかは厳しい能力検査をクリアする必要もあったそうです。
しかも、足軽・中間層から「徒士」層への抜擢もあり、人数が足りなくなれば自然供給される仕組みになっていたので、いきおい競争環境に置かれることになります。
厳しい競争社会を生き抜き、代々の家柄を守るためには、「頭と腕」を磨きあげ、実務官僚として存在価値を示すことが必要です。
だからこそ、子供の教育には熱心で、苦しい家計をやりくりして、勉学や技能に勤しむのが「徒士」の子供の生きる道でした。
磯田先生の代表作『武士の家計簿』の主人公である、加賀藩家臣 猪山家は、そんな「徒士」の典型例だそうです。
代々、藩の御算用係(そろばん係)を務め、会計実務を担うことを職分としていました。御算用係だけあって、プライベートのお金の管理も几帳面で、何百年にも渡って、家計簿を残してくれていたことが、磯田先生の手によって『武士の家計簿』としてまとめられ、私たちに下級武士の実像を教えてくれることにつながりました。
猪山家では、御算用係として、お役にたつように、子供達は幼少期から、算盤で頭をなぐらながら鍛え上げられたそうです。
その甲斐あって、天保から幕末の当主であった猪山直之・成之親子は、藩主から重宝がられて、江戸のお姫様の会計担当を任せられます。とはいえ、江戸住まいに必要な経費は、ほとんど自前で賄わねばなりませんでした。
重要な役目になればなるほど、出費がかさむという理不尽な生活苦に直面することもありました。
当時の猪山家の俸禄米を現在の価値に換算すると、僅か年収300万円程度。年収の2倍の借金を抱えて、なんとかやりくりする苦しい日々であったことが、家計簿から読み取れるそうです。
ところが不思議なもので、明治維新という大変革は、猪山家に思いがけない僥倖をもたらします。猪山成之が、縁あって官軍の指揮官大村益次郎に取り立てられ、戊辰戦争の兵站係を務めることで、運を掴んだのです。
明治維新後、多くの武士は没落していきました。維新政府に出仕できたのは武士の17%程度だったそうですから、ほとんどの武士が自分で生きる道を探さねばなりませんでした。
上級武士で学問のある人達は、神官や教師として糊口をしのぎますが、手に職のない下級武士は悲惨なものでした。
そんな厳しい時代にあって、猪山成之は、維新後も兵部省・海軍省に採用され、持ち前の会計の腕をフルに発揮、海軍の棒給表を作成するなど、テクノクラートとして生きる道を見つけていきます。
猪山成之が海軍から支給された年俸は、現在に換算すると4500万円を越えたと言います。
『武士の家計簿』には、猪山家と同格の他家の人々の、維新後の消息と推定年収が載っていますが、平均的な家で年収150万円程度の仕事にありつくのがやっと、家屋敷を売り払い消息不明になった人々も散見されています。猪山家の出世が垂涎の的であったことが想定できます。
猪山家の成功物語は、維新から明治の激動期に生き残り、近代日本を担っていった人々の意識の縮図でもあると磯田先生はいいます。
苦しい生活であっても、子供には教育をして軍人・官僚にして身をたたせる。明治初年の士族の教育エネルギーは絶頂に達しました。
やがて、陸軍士官学校や海軍兵学校に進み、日清・日露戦争を実質的に担った将校達は、こうして育てられた下級武士の子弟だったと言います。
現在にまで続く、日本の学歴社会の嚆矢は、ここにあったのかもしれません。
「身を立て 名をあげ やよ 励めよ」 仰げば尊しに歌われるこの一節、当時の教育に込められた期待を表してることを改めて感じます。

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