KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

夕学レポート

2009年05月22日

「書く」こと 「月を見る」こと 山田ズーニーさん

「ズーニー」というのは、カシミール語で「月」という意味だそうです。山田ズーニーさんは、インド旅行中に地元の人に付けられたこの名前が、心に残っていたようで、独立後、ペンネームを付ける必要に迫られた際に、思いつきのように心に浮かんだ「ズーニー」という言葉を綴って、はじめての原稿を書いたと言います。
今夜の東京は曇り空で、月を見ることは出来ませんでしたが、ズーニーさんは、月をイメージしたと思われる浅黄色のワンピースで登場しました。鮮やかでありながら奥ゆかしい。夜空にあって、慎ましやかながら、確かな存在感を示す満月の色に似ていました。胸には三日月のペンダント。名刺にも、青い夜空に三日月を配した印象的なものでした。
お名前そのままに、ズーニーさんは、「月」のような人でありました。
古代の人は、月の満ち欠けをもとに季節の移ろいや時の経過を知ったと言います。何度もこのブログに紹介してきましたが、裏千家家元の千宗室さんは、「侘び・さび」の心とは何かを問われる度に、「月を見よ」と応じるそうです。

「月の満ち欠けの繰り返しの中に、限りなく続く生死の輪廻を感じることができる。死ぬために生まれ、生まれる為に死んでいく。栄えるものの中に、衰退の哀れを感じ、滅びゆくものの中に、生命力を見いだすことができる」 
                       (2007年11月21日 「夕学五十講」

月を見るということは「見えないものを見る」ことでもありました。
ズーニーさんが、追究している「書く」という行為も、深いところで、「月を愛でる」日本人の、故き知の営みに通ずるものがあるように感じました。


ズーニーさんが、「書く歓び」に気づいたのは、独立から5年後、つい最近のことです。それまで、丁寧に説明しても伝わらないことが多かった「自分の想い」を、はじめて会った編集者が、ズーニーさんの本を読んだことで、正確に理解していることを知った時に感激したと言います。
この「わかってもらえた感覚」を“理解の花が降る”という独特の表現で、ズーニーさんは説明されました。
まだ肌寒い、春の夜風を受けて、夜桜が舞い踊るように、理解の花が降り注いでくる。そんな感覚なのでしょうか。
講演では、「文章が伝わる7つの要件」を中心にお話いただきました。
このブログでは、その要旨を説明することはしません。是非、ズーニーさんが書いたものを読んで、理解の花を降らせてみてください。
その代わりに、「書く」こと、「月を見る」ことにリンクして浮かび上がってきた、私の感想を書かせていただきます。
「書く」ことは、自分の根本思想を表現することだ、とズーニーさんは言います。
腹の根っ子にある、自分の本当の想い。実は、自分ではそれがわからないものです。ところが、根本思想は自分の行動や物言いの断片から滲み出ていて、以外と他者には気づかれているものでもあります。始末の悪いことに、滲んだ分だけ歪みや欠けが出て、それが誤解を生む要因にもなります。
だからこそ、自分で、腹の根っ子を見据えて、言葉にする作業が必要になります。
ズーニーさんは、これを「深層心理の海に潜る」という表現をされました。
自分の内面に広がる、深くて暗い海に、何度も繰り返しダイビングをして、岩の陰や砂地の下に潜んでいる「自分の想い」を掴みだし、言葉に変換する行為。そんな深層心理との交信作業のことを、「考える」と言うのではないか。ズーニーさんはそう言います。
「考える」ための道具が、「問い」であり。繰り返し潜るということは、何度も自分に問いかける「自己問答」に他なりません。
禅宗の開祖 達磨大師は、ひらすら壁に向かい、何年も「自己問答」を繰り返すことで、悟りを開きました。
月の満ち欠けを見て、見えないものを見ようとする「侘び・さび」の心と、同じ精神の働きが、そこにあります。
(wikiの達磨のページに載っている、月岡芳年画『達磨図』にも月が描かれているのは、なにやら暗示的です)
除夜の鐘を聞きながら、過ぎた一年の来し方を振り返り、迎える一年の行く末に思いをめぐらす日を、「大晦日」と言います。晦日とは月末の意味ですが、太陰暦で、晦〔つごもり〕」とは、”月が隠れる日”でもありました。
月が隠れた闇夜に、見えないものを見ることが出来る人のことを「くろうと(玄人)」、つまり暗い中でも本質を見通せる人と言います。
・「書く」ことも、「月をみる」ことも、見えないものを見ようとすること。
・それは、心の奥底に潜む「自分の想い」を知ること。
・そのために、ひたすら「問い」を繰り返さなければならない。
・「自己問答」の末に、ようやく「自分の想い」を言葉にすることができる。
・それは、「人生の玄人」になることでもある。

誰にでも出来ることの中に、誰もが出来ない道があると言います。
「書く」ことは、人生を極めようとすること。だから一生「書く」ことに向き合わなければならない。
曇って見えない月を見ながら、そんなことを考えて家路につきました。

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