KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

夕学レポート

2009年07月17日

苦しみに向き合うこと 上田紀行さん

春風亭小朝師匠が従兄弟、奥様がNHKの武内陶子アナ、という「しゃべりのプロ」に「縁起」のある上田紀行先生。
ご本人も、負けず劣らず弁舌は滑らかで、随所にジョークを散りばめながら、湧き出るような知識と想いを語っていただきました。
20年以上前、スリランカの「悪魔払い」のフィールドワークの知見から「癒し」の重要性を提唱し、「癒しの上田さん」と呼ばれたこともあるそうです。
ただ、上田先生の主張する「癒し」は、アロマや温泉・マッサージなどのグッズ・体験に偏った「癒し」ブームのそれ(上田先生曰く「小さな癒し」)ではなく、「大きな癒し」とのこと。
「大きな癒し」とは、きょうの講演主題である。「生きる意味」「仏教の役割」に直結するこころの根本に働きかけることでありました。


現代社会は、「生きる意味」の不況に陥っている。
小泉構造改革への期待が頂点に達していた5年前、上田先生は著書の最初の言葉をそう書き始めています。
同質化圧力が高く、ひと目を気にする特性がある日本人社会に、成果主義的な強烈な評価システムが組み込まれたらどうなるか。
そのプレッシャーに耐えきれずに自壊していく人間が増えていくに違いない。日本社会が壊れていく。
上田先生は、そう警鐘を鳴らしましたが、残念なことに、その通りの現実になってきました。
「人間は使い捨てだと思うか」という問いかけに対して、東工大の学生の半数が肯定するといいます。
そういう殺伐とした社会にあって、「使い捨てられた」と認識した側の人間が何をするか。使い捨てた側の人間を指弾し、「お前達もここまで墜ちてこい」という、どうしようもなく暗い、間違った同質化願望に絡め取られていく。
秋葉原連続殺傷事件も、大阪のパチンコ店放火事件の背景には、「生きる意味」を失った社会病理がある。それが上田先生の見方です。
人間には、「支えのシステム」が必要である。
上田先生はそう言います。
多くの国と地域では、「宗教」がその役割を果たしているとのこと。
ウォール街でもシリコンバレーでも、こころの根っ子にはキリスト教があり、だからこそマネーゲームに没入しても自壊しないでいられるのだそうです。
日本の宗教の悲劇は、信仰心を喪失しながらも、宗教的な習慣だけが残って形骸化したことにあります。
その端的な例が、「葬式仏教」と揶揄される仏教の形骸化にあると言います。
上田先生によれば、釈迦が唱えた本来の仏教は、「苦しみに向き合う・苦しみと寄り添う」ことにあります。その一助として「教え」の普及があるわけです。
このあたりは、五木寛之さんのお話された「鬱の力」と同じです。
ところが、現実の仏教は、教条化した「教え」だけが残り、人の苦しみに寄り添うことを放棄して、上から目線で、説教臭い道理を説く存在になってしまいました。金銭面でのブラックボックス化も、信頼を失う原因になっています。
全国に7万5千の寺院があり、「お寺さん」は、他に類のない優れた社会インフラ装置です。
「苦しみに向き合う・苦しみと寄り添う」という本来の姿に回帰することができれば、日本社会特有の「支えのシステム」として、仏教が果たすべき役割は大きいはずだ。
それが「仏教の上田さん」に鞍替えしてまで、上田先生が主張されてきた、仏教への期待に他なりません。
講演では、本来の姿への回帰を実践している、意欲的な僧侶の例として、信州松本の神宮寺 高橋卓志住職を紹介してくれました。
タイを30数回訪れ、末期のエイズ患者やHIV感染者と同じ立ち位置で、「苦しみに向き合う・苦しみと寄り添う」活動を実践しているタイの僧侶達に触発され、松本で、死の訪れを身近な存在として感じ始めたお年寄りを集めて、「コミュニティケア」に取り組んでいます。
寺院の会計を全て公開し、金銭面でのブラックボックス化解消にも取り組んでいるそうです。
多くはないけれど、神宮寺のように、がんばっている僧侶やお寺もある。それを応援したい。それが、仏教の応援団を自認する上田先生の活動です。
上田先生は、ダライ・ラマとの対談で印象に残った言葉も紹介してくれました。
「現代社会における妥当性を失ったら仏教も亡びるだろう」
強いものでも、賢いものでもなく、ただ環境に適応したものだけが生き残る。ダーウィンはそう言いました。
進化論メカニズムがあてはまるのは、生物だけでなく、生物の一種である人間が創った全ての社会システムも同じなのかもしれません。
ダライ・ラマは、「妥当性」の概念を最初から持っていたわけではないだろう。流浪の苦難の中で、多くの仏教者以外の人々と議論のテーブルを囲んだからこそ、生み出された言葉ではないか。無数の「負ける議論」を経て辿り着いたに違いない。
上田先生は、そう見ているそうです。
ダライ・ラマの言葉にある「仏教」を他に置き換えてみるとどうでしょうか。
なんとも、深い言葉です。

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