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夕学レポート

2011年11月09日

芸術とは人間そのものである  千住博さん

photo_instructor_583.jpg「私は芸術について、こう思っています」「皆さんはどうですか?」
千住博さんは、二時間の講演を通して、何度もこのフレーズを繰り返した。やがて私たちは、この問い掛けが、本講演の主題「芸術的発想「「美的発想」そのものであることに気づいていった。
千住さんは、講演という行為を通して「芸術的発想「「美的発想」を、目に見える形で実践してくれたのではないかと思う。
それは、グローバリズムが席巻しつつある世界に向けた文明論であり、哲学の提示でもあったのではないだろうか。
「芸術とは何か」 この命題に対して、千住さんは和風洋食(例えば納豆パスタやカツカレー)を喩えに、分かり易く解説する。
「芸術とは、ある枠組み(制約)の中で、まったく異なるものが調和を奏でることである」
異質なものが個々の存在感をしっかりと主張しつつも、ある枠組み(制約)を受け入れることで、全体の調和を創造する。この意味で、納豆パスタやカツカレーと、オーケストラや絵画は、同じ構造と言える。
では、「芸術的な発想」とはどういうことだろうか。
千住さんは、「仲良くやる知恵」を発揮することだと言い切る。
伝えにくいこと、伝わりにくいことを伝えようという努力。しかも不特定多数の人々に向けて表現しようという工夫。
いわば、自分のイマジネーションをコミュニケーションしようとする思いの強さが、「芸術的な発想」ということである。
「私は芸術について、こう思っています」「皆さんはどうですか?」
このやりとりが、「芸術的な発想」が具現化された姿なのだ。


もうひとつの命題がある、「美とは何か」
「美」という漢字は、三千年前の中国で生まれた。「羊」が「大」きいと書く。
羊は当時の人々にとってなくてはならない存在。その羊が大きい、つまりは、美とは「豊かさ」の象徴だ、と千住さんは言う。
さらに言えば、美=豊かさの象徴とは、「人が生きることの理想」に他ならない。
生きていてよかったという感動、喜び、元気、内面から湧き起こる生命力が、「美」である。
「きれいな絵を描くな、美しい絵を描け」
千住さんが、学生達にいつも言うメッセージだという。
「きれい」にこだわると、余計なものを省き、整理してしまう。未成熟な若者には、可能性を削ぐことにもつながる。
「美しい」とは、生命力に溢れ、それゆえゴツゴツとして、捉えどころのない「渾沌」である。渾沌を丸ごと抱え込んで、悩みのたうち回りながら、そこに「秩序」を与えることで、「美しい」絵が描かれていく。
「渾沌の中に秩序を与えること」
それが「美的な発想」
に他ならない。
芸術とは何か、
それは、ある枠組み(制約)の中で、まったく異なるものが調和を奏でること。
芸術的発想とは何か、
それは、仲良くやる知恵を発揮すること。
美とは何か、
それは、豊かさ、人が生きることの理想。
美的発想とは何か、
それは、渾沌の中に秩序を与えること。

地球という枠組みの中で、異なった民族や国家が調和を奏でようと、仲良くやるための知恵を出し合う。
人間として生きていくための理想である「真の豊かさ」を求めて、渾沌とした社会に秩序を与えようとする。
芸術や美を語ることは、人間を語ること。人間の生き方、社会のあり方を語ることと同じである。
芸術家、千住博氏の矜持がここにあるのではないか。
人類最古の芸術は、1万8千年~1万5千年前、薄暗い洞窟の中で、旧石器時代の原始人達が描いた壁画だと言われている。(アルタミヤラスコーの壁画)
彼らは、絵を描くことで、脳内に投影された自己の認識を再現していった。言い換えれば「客観性」という能力を鍛えていたのではないかと千住さんは言う。
やがて1万5千年前を境に、洞窟の壁画はなくなる。原始人達は、洞窟の外で生活を始めたのだ。絵を描くことで磨き上げた知的能力を頼りに、仲間と協力して狩りをし、小さな集落を作り、祭りを祝った。社会を作っていったのだ。
芸術が、人間を、人間らしく変えたのだ。
だとすれば、パスカルではないけれど、人間は、芸術によって宇宙を越えることができるのかもしれない。
改めて、千住さんの作品を味わってみたい。

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