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夕学レポート

2012年02月21日

質問タイムなのに...

先週末、某自治体が主催するシンポジウムを聴きにいった。
テーマに関心があったこと、モデレータやパネラーが、是非、話を聴いておきたいと思う魅力的な人選であったことが理由である。
パネルディスカッションの内容には、示唆深いやりとりも多くふくまれていて大変満足であったが、その後の質問タイムがいただけなかった。
最初に、さっと力強く手を挙げた質問者は、某大学で日本思想を研究しているという先生であった。
「論語にこんな一節があります...」と格調高く始まった時に、嫌な予感がしたが、それが的中した。延々と講釈をのたまった後に、
「・・・ということが私の感想です」と、満足そうに座ってしまった。
感想発表の時間ではなく、質問タイムなのに。
次に、これまた「どうしても指名して欲しい」という意欲を前面に出して、最前列の男性が手を挙げた。
「私が、スタンフォード大学に留学していた時の経験から言うと...」とさりげない自慢話が入るのはご愛敬としても、彼の問題意識というものは、よく語られることで、きわめてスタンダードな質問であった。そこで終わってくれればまだよいのだが、終わってくれない。
「これについては、私が思うに...」と、今度は自分で答える側に廻ってしまった。
それが面白ければいいのだが、これまたステレオタイプの見解でつまらない。
滔々と持論を語った後に、自分で長すぎたと気づいたのか、質問にならぬままに、急に尻すぼみのように話を終えた。
次ぎに、手を挙げた方は、某大手エレクトロニクスメーカーの社名を名乗った後に、「ビジネスの立場から...」と話はじめると、今度は、日本のものづくりが如何に優れているかを縷々語りはじめた。
さすがに会場もいらだってきて、
「ちょっと長いよ」という一声があがり、そそくさとマイクを置かざるをえなかった。
結局、20分近い時間の間、質問はひとつもされず、延々と、蕩々と、縷々と自説を開陳しる場に変わってしまった。
講演会や、シンポジウムでは、こういう現象がよく起きる。
しかし、夕学五十講では、まずこういう光景を見ることがない。
質問者が感想を述べることはあっても、それはあくまで簡潔で、後に続く質問の文脈を補完するものである。
受講者の方に恵まれているなぁとつくづく思う。
はじめて夕学で話す講師の中には、30分も質問時間を取って大丈夫かといぶかる人もいる。
前述のような経験を何度かされて、辟易とされているのだ。
「夕学は、大丈夫です。見当違いの質問者はいませんから」
私は、いつも自信をもって、その懸念を打ち消すことが出来る。
そして終了後には、「きょうは良い質問をいただいて、自分も刺激になりました」と満足していただくことができる。
夕学の価値のある部分は、受講者の方に形成していただいているのだと感謝している。

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