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夕学レポート

2013年01月25日

東アジア・モデルの希望と呪い  與那覇潤さん

「はたして民主化とはなんでありましょうか!」
「私は、民意を政治に反映させること、このように思うのであります!」

人差し指を立てた右手を打ち振るいながら、声高らかに話す姿は、自由民権運動の弁士を彷彿させるようでエネルギッシュであった。
photo_instructor_653.jpg弱冠33歳の歴史学者 與那覇潤氏 が書いた『中国化する日本』という本は、だれが見ても挑発的なタイトルである。事実、出版社側には「このタイトルは不快な気持ちを喚起するので止めた方がいい」という意見が根強くあったという。與那覇氏は、自身でつけたこのタイトルをあえて押し切った。
中身を読めば中国礼賛論、脅威論ではなく、中国の実像を冷徹に見通した東アジア歴史観だということがわかる。中国の論理もわかるし、課題も見えてくる。という強い信念があったからではないか。
與那覇氏がいう「中国化」というのは、「社会のあり方が中国社会のあり方に似てくること」を意味するが、その「中国社会のあり方」はいまから千年前 宋の時代に形作られたものだ、という。
つまり、日本は、というよりも東アジア全体が、ひょっとすると世界全体が、千年前に形成された中国社会のあり方に似てくるのではないか、という論旨である。
近代以降、人類の進歩は「文明の進んだ西洋のようになること」と同義とされていた。近代化とは西洋化であった。
それは簡略化すれば、「議会制民主主義による国民主権国家体制」であり「自由で公正な資本主義体制」である。
中国はこの要件を満たしていない。特に前者はその萌芽さえ見えない。にもかかわらず、2016年にはGDP世界一の大国になることが予想されている。
ひょっとして中国は、従前われわれが持ち得なかった新たな文明のあり方を、無自覚的に目指しているのではないか、というものだ。


與那覇氏が「西洋化」の対概念として提示する「中国化」、つまり「千年前に形成された中国社会のあり方」というのは、いくつかあるが、ざくっと言えば、
「経済や社会は自由化するが、政治の秩序は一極独裁支配によって維持される」
ことである。
宋王朝は、それまでの身分制を破壊し、貴族階級を消滅させた。代わりに「科挙」を導入し、実力主義的な人材発掘・登用に基づく官僚制で国を運営することに成功した。国家秩序の理念は朱子学道徳と定め、「科挙」の試験もこれに準じた。
科挙を共産党、朱子学を社会主義イデオロギーに置き換えれば、現代の中国も同じ構図に当てはめることができる。中国の社会原理は、宋時代から変わっていない。
実力主義の科挙により社会の人材流動性は高まった。経済活動は活発となり、宋時代の中国は、世界最大の経済大国であった。
国家管理型の資本主義に支えられて発展した現代中国の経済とよく似ている。
ここまでは、『中国化する日本』にあった内容であるが、講演では、新たな見解が提示された。
「中国化」を拡大した「近世東アジア・モデル」という概念である。
近世(17世紀~18世紀)に日朝中三国で共有されていた社会観・政治観を意味しているようだ。
例えば、江戸時代の琉球は薩摩の支配下にありながら清朝にも朝貢していた。それを両国とも承知しながら、あえて放置してきた。揉めそうなことは棚上げしておいた方がいいという知恵を共有化していた、というものだ。
與那覇先生は、これを「自覚的に曖昧な秩序」と呼んでいる。領土問題などは、決着をつけずに曖昧にしておくことで、日朝中三国は微妙な均衡を保つことができた。
近代になって、琉球や朝鮮半島の帰属問題をはっきりとさせようとしたことを契機に、日朝中の緊張状態が高まり、東アジアは不幸な時代を迎えることになった。
これは尖閣や竹島の問題とまったく同じ構図である。
ではなぜ、はっきりとさせようとするのか。
ひとつの理由が、「近世東アジア・モデル」が内在する影の部分である。
與那覇先生は、「近世東アジア・モデル」のひとつに、「一君万民」という政治理念があるという。そしてこれは、東アジア流の民主主義だとする。
一人一票の平等を重視する議会制民主主義はとらないけれど、道徳観念を体現する統治者が、民衆の声をよく聞き、求めるものを実現しようとする。民意が政治に反映されるべきだという意識が浸透しているというものだ。
確かに、日本は議会制民主主義ではあるが、自律した個が主体的な意見をもち、自らの代表を選んで議会で議論してもらおうという意識は薄い。
むしろ民意を的確にくみ取ってくれるよきリーダーが、上手に国を運営してくれるのが望ましいという「一君万民」型の民主主義を無自覚的に求めているのではないかと思えることもある。
政治に反映されるべき民意はさまざまだが、もっとも熱狂性を帯びやすいのが領土問題であることは、古今東西変わらない。「一君万民」型の民主主義には、国民的な熱狂に押されて、曖昧にした方がよいものをはっきりさせようという圧力も働いてしまう。
中国大陸侵略という戦前日本の大失敗を招いた理由のひとつは、これであった。昨秋、中国各地に沸き起こった反日運動もよく似ている。
曖昧にしておこう、棚上げしておこうと統治者が考えても、民衆がそれをさせない、許さない。
「近世東アジア・モデル」には、光と影がある。
「曖昧のよさ」と「熱狂の暴走」という二面性がある。
では、どうすればよいのか。
與那覇さんのまとめも、ややわかりにくかった。
ただ、日本を含めて先進諸国では共有化できる理念や価値観が、中東やアフリカ、そして中国には通用しないことは、どうやら間違いないようだ。
一方で、日本は付き合いの長い隣国として、中国と共有できる理念や価値観を持っていることも事実である。
どちらの側からいっても、一方的な原理の押し付けは、問題の解決には繋がらない。
一歩、二歩引いた目線で、時間軸と空間軸を大きくとって、世界の動きを見つめ直すことが重要である。
その時、與那覇氏が提示してくれたような「大きな物語」が意味を持つと思う。

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