KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

2010年11月09日

「私の10年 ~これまでとこれから~」松盛千佳

プロフィール

現職:シンクタンク系コンサルテーション会社にて全社人材育成企画スタッフを経て、システムコンサルティング部門事業企画スタッフ。
社会人最初のキャリアは都市銀行のシステム開発部。その後、人材コンサルテーション会社へ転職し、「人と組織」に関わるようになる。現職は、その当時の自身の新規開拓先。
学生時代から「自分らしさ」にこだわり、「私にしか出来ないこと」というフレーズに弱い。熟考するより直観で動くところが多く、キャリア形成も「偶発的な出来事」を紡いできたと言える。

 

10年前~【キャリアアーキテクチャ論】との出会い~

 10年前、私は人生の正午にいた(らしい)。
 MCC【キャリアアーキテクチャ論】に参加したのは、「大学院を出て5年、このあたりで再度体系的に何かを学びたい。『仕事を続けていく』ということに何らかの付加価値になるものを修得したい。」と感じていたことが発端だったと思う。

 当時、私は企業内人材育成を担当する人材開発部にいた。部署丸ごと子会社に出向という事態になったり、採用人数が急激に増え、新人研修ひとつとってみても、今までのやり方が通用しなくなったりと大きな変化に見舞われていた頃だった。
今までの職業人生の中で一番働いた(物理的にも精神的にも、また、チャレンジとしても)と言っていい時期だった。

 我々の組織は、プロフェッショナルとして自律的に仕事をすることが求められるという職種の集合体(のはず)であり、成果主義的人事体系、自律的人材開発体系をひいているはずだった。 しかし、日本企業、それも、金融系日本企業の流れをひいているからか、運用は日本的な形でなされている部分が多かった。そのような中で「自律的キャリア、そのものが存在しうるか、それを支援する会社としての制度・仕組みがあり得るのか、あり得るとしたら、私は何をなすべきなのか?」といったことを、かなり大上段に、思い切り肩に力がはいったままで考えていた。

 プロフェッショナルでない人に、とても憤っていた。自分は仕事に「賭けている」と思っていた。このキャリアという分野だって、「私がやらなきゃ誰がやる、誰がやれる?」などと思っていた。
今、振り返ってみると、かなり滑稽である。なぜなら、周囲に支えられ、自由に動き回らせてもらっていたことに気付いていなかったからである。

 「私にしかできない」「私だからこそ」と思えることが、私のモチベーションの原点の一つであり、当時の私はその思いを原動力に、駆け抜けていたと言ってよいかと思う。

この10年 ~キャリアの危機?~

 人生の午後が始まった。午後の日差しをあびながら、思い切り駆け抜けていた。

 次期幹部候補生選抜育成、育成活動診断導入、EAP制度導入、育成委員会立ち上げなど、次から次へと関わっていった。さまざまな分野に関われることが楽しく、ハードワークも殆ど苦にならなかった。マネージャーにもなり、責任が大きくなると、土日も仕事を持ち帰ることが多くなった。いつしか胃の調子は良くないことが多くなった。ただ、それも「当り前」だった。

 そんなあるとき、愕然としたことがあった。「次に何をしたいか、微塵も思いつかない」と、はっきりと認識したことだ。「こういうプログラムが必要」「次はこういうことやるべき(だけど、今はできない)」と思うことはあっても、「何をしたいか、何をすべきかが思いつかない」ということは初めてだった。異動になったのは、そのようなときだった。

 異動した先は、事業部門の事業企画室だった。あまり大きくない部門のため、ありとあらゆるスタッフ機能業務があった。「企画」のみならず、プロジェクトの収支、部門予算、会議運営等オペレーショナルなことまで、大いなる雑用とも言える作業の山だった。怒涛のような毎日、分刻みでタスクを切った。そのような環境にいると、いけないことだとは思うが、「人材育成」という「重要だが、緊急ではない」仕事には、まったく手をつけられなかった。また、「キャリア」ということにも興味関心が薄れていった。この変化には自分自身が驚いた。

 今まで経験したことのない仕事、仕組みがよくわからない仕事、今までの蓄積がまったく用をなさないと思われる仕事、また、「私でなくても」とつい思ってしまうような仕事も多かった。発言すべてが否定されるという、自分の存在そのものを否定されるようなことも経験した。報告の上げ方の順番やサラリーマンとして言ってはいけないことを言っているなど、まるで新人のように「箸の上げ下ろし」をいちいち注意されているような状態も経験した。小さな四角い箱に入れられているような感覚で、私自身には何も価値がないようにも感じた。闇のなかの泥沼にいるような状態で1年半近くを過ごしたころ、箱に窓ができ、扉が出来てきた。光は見えないけれど、体は自由に動くようになり、ものも考えられるようになった。

 ここでは「まだ、何も達成はしていない」(と思う)。ただ、人は「顔がやさしくなった」という。「ボケた顔になった」と自身では思っているが、以前は「鬼のようだった」といわれると、「ボケた顔もまたいいかもしれない」と密かに思う。一皮むけたかどうかはわからないが、あのまま突っ走らなくてよかったと思えることは、何らかの違うステージに立ったとは言えるだろう。

これからの10年 ~私への期待~

 今は、魔の14:00がちょうど過ぎたあたりだろうか。一番眠い時間を過ぎたあたりである。夕方の活動に向けて、休養は十分とれたようにも思う。

 キャリアは、昔定義をしたように、「自分自身の仕事人生そのもの、自分にとって貴重な仕事全般の経験」だと思う。よって、「キャリアを考える」ということは「人生そのものを考える」ことにつながり、「キャリアを追求する」ことは「自分らしさを追求する」ことと同義だと言えると思う。その「人生」に対する私の変わらないイメージは、「川の流れのようなもの」である。私の流れはこのあと、どのように流れていくのだろうか。「海にむかっていく、大きな流れになる」ようでありたいと思う。

 この10年、川岸の景色をみる余裕がなかった。気がついてみたら、景色はどうも異国のものに変わっているように見える。今更過ぎた景色を懐かしがってみてもはじまらない。この後の景色を楽しみつつ、大きな流れになっていきたいと思う。また、そうなれると私自身に期待をしたい。

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