KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

2011年01月11日

「人生の折返し、これからどう生きていくのか」岩田光晴

プロフィール

高校まで育った奈良を離れ東京の大学へ。リクルート入社以降、営業、教員、職員と転職をしてきたが、一貫して人材育成に関わってきた。企業の採用・教育に関わる業務を9年間、大学・短大・専門学校の学生募集・学校経営に関する業務を8年間。36歳を過ぎて社会人大学院(筑波大学)で学び、修了した半年後、広島大学の助教授に転職。国立大学法人化時には、入試制度改革、大学広報、UI(ユニバーシティ・アイデンティティ)活動にも従事。現在は母校でもある慶應義塾の創立150年事業に関り、新事業立上げと推進も行っている。
妻とは大学時代に知り合い25歳で結婚、大学生の娘が2人いる。
中学からサッカーを13年間続けたが、社会人4年目からアメリカンフットボールに挑戦し、日本一を2度経験。座右の銘は「自我作古(われよりいにしえをなす)」

-自分の10年後が見えていたのか

10年前、心に描いたことを、今の仕事で手掛けている。
わたしは現在、150年前の維新の時に貢献した「私塾」の原点に還り学びあう塾の運営を行っている。
その名は「福澤諭吉記念文明塾」。慶應義塾創立150年を期して創設された塾である。
未来貢献を果たすべく集まった学生と社会人がそれぞれの立場や身分を超えて、
対話と議論を通じながら、ともに学び刺激し高め合う「半学半教」を実践している。

10年前、わたしはキャリア・アーキテクチャー論の最終課題で「日本の人材育成を見直したい」という趣旨レポートをまとめ、明治維新のころ数多くの人材が育った「私塾」がこれからは必要だと力説した。
自分がそんな内容を書いていたことは、最近まですっかり忘れていたし、まさかその後に、慶應という「私塾」の創立150年事業に関わるとは、想像もしていなかった。

人生の折返しを意識し始めたのは、30歳の後半。
働きながら夜間と土日に学ぶ社会人大学院に進学したのが36歳の時。
修士論文のテーマは「社会人のキャリアにおける大学院教育の有効性に関する研究」。
「キャリア」というキーワードと出合い、学びとキャリアの関係を追求するきっかけを得たことで、その後の人生が大きく展開していくこととなった。

-転職は「人生の折り返し」にめぐり会ったもの

リクルート入社後は、「3年間はとにかく働く」と腹に決め、がむしゃらに働いていた。
幸い営業成績もよく、27歳の時にはマネージャーに昇格した。
しかし、長く続くわけも無く、成績不振は組織への不満となり、30歳過ぎには、自分なりの評価軸でモチベーションを維持する必要がある、という焦りが出始めてきていた。

30歳半ば、大学院で学んでいる頃、社会人向けに大学・大学院の情報を提供するプロジェクトを立ち上げていた。
日中は大学訪問し、夕方には銀座にあるオフィスを出て大学院のある茗荷谷へ、夜9時に授業を終えるとオフィスに戻って残務。家に帰ってレポートや論文の作成。
そんな激務でも、自分の学びの経験から学びを求める読者のリアリティを実感し、新しいマーケットを創造しようと大学側に提案する日々は充実していた。

一方で、リクルートの営業という立場では所詮評論家にしか過ぎない、大学改革は現場で働いている人が動かないと難しい、とも感じていた。
そこに偶然いただいた、大学院で知り合った方からの広島大学への転職話は、現場に飛び込み、今までの経験と学んだことを活かし実践する、絶好のチャンスだと感じられたのだ。

38歳の時、残りの人生を「教育分野にかける」と決めた。
幸い上司の理解もあり、新卒から16年間勤めたリクルートを離れ、営業マンから広大の教員に転職した。
しかし、広島には行ったこともなければ、知り合いもいなかった。
具体的なプランやはっきり見える道筋があったわけでもない。
しかも、家族の理解さえ、きちんと得られていたわけではなかった。
子どもの教育面から、広島には単身で行く選択しかなかった。
「組織命令の転勤ならまだしも、敢えて家族と離れて、自らその選択をする理由が理解できない」と妻からは言われた。

-失うものがない、「やるしかない」

ただ、志ははっきりしていた。
リクルート時代から関り、強く感じていた「日本の人材育成」の仕組みを考え、具体的な形にしていくこと。
日本は人材が最大の資源であり、そのためにも教育改革、大学改革が欠かせない。

広大に来て、まずは「入試改革:高校と大学の接続」に着手した。
現場に入ってみると、自分の情報がいかに浅かったかを思い知らされた。
高校生にとっては人生最初の転機であり、主体性を育む絶好の機会であるにも関らず、高校現場は画一的な指導で成績順の大学進学、というレールに乗せようとしている。
大学側も成績だけでは見えない生徒の個性に期待して、選抜しようとしない現実。
とにかく、ギャップだらけだった。

ただ、覚悟して赴いたせいか、ギャップ全てが自分への課題として新鮮に思えた。
高校生の主体的なキャリアを育む高大接続(高校と大学を繋ぐこと)を目標に、AO入試の導入を手段として、高校訪問を行い現場の先生と意見交換し、高校生への講演や相談対応で語りかけ、大学に持ち帰って入試改革の必要性を説いた。

他にも課題はたくさんあった。
広大は国立大学法人化という大きな転機を迎え、仕事の宝の山だった。
入試以外にも広報や地域貢献、新しいコミュニケーション活動となるUIの導入、「改革」という文字に金縛りになっている大学現場の意識転換にも取組んだ。
思うように進まないことも多く、肉体的にもかなり厳しかった時、「情熱」と「対象」、そして「方法」という教育に関る際の基本フレームを思い出し、何のためにやるのかと自分へ問いかけ、セルフモチベーションでのりきった。
「日本の教育を良い方向に変えていく」という自分の「情熱」を誰に注ぐのか、「対象」が明確であればあるほど、より行動力が増す。「方法」はそれらの後からついてくるし、いくらでもあるのだ。

-「事業は人なり」人生で大切なのは人の縁

「天の時」「地の利」「人の和」。
新しい事業の推進には、この3つがそろうことが成功の鍵だと感じている。
特に「人の和」が大切だ。
振り返ると、成果があがった事業には数々の人々との縁があった。
広大でも、企画の主旨に賛同いただき、新参者の私をフォローし、一緒になって考え動いてくれる方々に恵まれた。
リクルートの時も、この人と一緒に仕事をしてみたい、と思える人がたくさんいた。
いろんな思いや期待をいただいた分、結果を出さないといけない。
現在の仕事においても、その感覚はますます強くなっている。
また、家族のありがたみを痛感したのも広大での単身赴任生活。
妻の厳しい言葉や的確な指摘が、自分の志を再認識することになった。
私のメンターは妻だと認識したのもこの時だ。
志を共にした人と人の相互作用が、新たな情熱を生み出してくれる。

-人生は運命づけられているのか、自ら切り拓くものなのか

「今日を精いっぱい生きる」と高校生の卒業アルバムで書いた。
「先輩のいない会社に入ってやってみよう」と知名度の低いリクルートに入社した。
社会人4年目には、「日本一を体験したい」と全く経験のないアメフトを始めた。
さまざまな選択を振り返ると、「誰もやっていないことに、挑戦する」といった、私のDNA=キャリアアンカーが見えてくる。
キャリアアンカーを認識できると、人生の選択や行動には迷いが少なくなる。
重要な選択時に自分を見つめなおし悩むことは大事だが、自らの選択に対して、決断と覚悟をもって、結果を出す努力を継続するほうが、より重要だと思う。

運命や縁を感じることはたびたびある。しかし、運命的な出会いや仕事にめぐり合うには、自分がどれほど意識的に動き、さまざまな人と接するかによって、違ってくるのではないか。
だとすると、自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えていくことが大切だ。
ダニエルレビンソンは、人の生涯は安定期と過渡期の繰り返しであると説いた。
私の人生も約5年ごとにそのように繰り返してきたと思う。

間もなく迎える50歳。新たな過渡期の入り口に立っている。
でも、歳をとっても、また新しい刺激的な人生をおくれる予感がある。
運命と感じるものを、自らの課題や使命として、全うするのも自分次第。
「自我作古 我より古を為す」
一度の人生、どう生きていくのか決めたからには、
誇りを持って、「My job is my life」と言える仕事をして、生きていきたい。

<参考>
福澤諭吉記念文明塾
http://www.fbj.keio.ac.jp/
広島大学での活動記録
http://rihe.hiroshima-u.ac.jp/viewer.php?i=138

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