KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

2011年03月08日

「小器こそ晩成を目指して」山川純子

プロフィール

自動車メーカー、ITベンチャー、ホテル系列人材会社を経て、2003年独立。有限会社インタリストを設立し、フリーランスのライフキャリアアドバイザーとして、個人の転職支援・キャリア形成支援に取り組んでいる。2004年から2007年にかけては、地方のジョブカフェ(若年者の就職を支援する公的施設)の立ち上げに参加。目下の関心事は、自律的キャリア形成支援ツール「キャリレコ」の利用者拡大。
趣味はウォーキング。東海道53次は道半ば、四国88ヶ所遍路は結願。
1959年生まれ。

 

『キャリアアーキテクチャー論』に集った受講者が、慶應MCC通信【てらこや】に場を借りて、「10年目のリフレクション」を行おうということになった。この企画の恩恵を最も受けたのは私ではないかと、密かに考えている。
昨年12月から始まった連載の準備は、10年来続いている勉強会を母体として、有志を中心とする打合せが春先から重ねられていたのだが、私自身がその活動を通して、一つの区切りをつけることができたからである。

『キャリアアーキテクチャー論』を受講する数年前、私は、新卒で入社した自動車メーカーを40歳という節目に退職していた。会社がリストラを進める中で、残りの職業人生に想定外の進路を選ぶのもおもしろいのではないかと考え、早期退職に手を上げたのだ。
退職を決めたものの初めての転職であり、他社で自分がどこまで通用するか、不安は大きかった。大海原に投げ出される夢を見たことを覚えており、新たな航海に出帆する心境だった。

その後、ITベンチャーやホテル子会社で働きながら、自動車メーカーで培われた経験やスキルがそれなりに役に立つという手ごたえを得ていく。また、大企業の社員であった時には考えられなかったことだが、小さな会社がそこそこの管理水準で回っていることを目の当たりにし、独立しても何とかやっていけるのではないかとも感じるようになっていた。

人材関連の専門誌の中にキャリアカウンセラー資格の広告を見つけたのは、ホテル子会社に勤めていた時だった。キャリアカウンセリングを学び始めてみると、「大学で専攻した心理学に戻ってきた、道はここにつながっていたか」とストンと落ちるものがあった。企業に勤めた経験と心理学への関心や知識をともに活かせる職業が求められる時代が到来し、自分の居場所を見つけたように感じた。

キャリアカウンセラーとして知識を体系化したいと思い、受講したのが、『キャリアアーキテクチャー論』だった。人材派遣事業の立ち上げが一段落し、仕事に物足りなさを感じていた私は、『キャリアアーキテクチャー論』を受講している仲間たちの志の高さに触発され、将来の計画を十分に立てることもなく、会社員生活に終止符を打つことを決意した。キャリアカウンセラーの立場からすれば、世の中を甘く見て、自分の能力を過信していたとしか考えられない暴挙だったといえるが、とりあえず飢え死にすることなく今に至っている。

ジョブカフェという若者の就職支援施設立ち上げに従事することになり、2004年7月には赴任するため地方へ転居した。当初は、自営業との二足のわらじを履きこなすつもりであったが、新規事業の立ち上げにはエネルギーが必要だ。次第に地方での仕事に忙殺され、東京のビジネスが徐々に縮小していったのは、必然の結果であったといえよう。

3年弱の任期終了時には、疲労困憊の有様で、滞在を半年伸ばせないかという非公式の打診にも、まったく心を動かされなかった。2007年4月に東京に戻ったものの、仕事をする意欲が湧かないまま、半年以上を遊び暮らし、その後、新しく手がけたビジネスは軌道に乗ることなく、猛暑をきっかけとしてほとんど身動きが取れないほどに体調をくずしてしまった。

2010年に入り、体調はかなり回復していたが、相変わらず気力が充実しない日々を送っていた。「10年目のリフレクション」に参加したのは、そのような時だった。最初に試し書きした原稿は、時代の変化に翻弄される自分を擁護する書き方をしていた。心酔していたドラッカーを援用しつつ、素直な気持ちを書いたつもりが、メンバーからは自分の言葉で書いていないと痛烈に批判された。「自分の気持ちに素直になっているか」と問われ、「勉強のできるいい子だったんだろう」とも言われた。そこで、ようやく、私は、気づいていながら目をそらしてきた自分の感情を受け入れないことには前進できないのか、と観念したのである。

ジョブカフェでは、契約の最終年度にセンター長を務め、苦労した甲斐あって、それなりの成果を上げられたのではないかと考えていた。スタッフはもちろん、地域の方々の協力があってこその結果ではあったが、私がいなければ成し遂げられなかったであろうという自負があった。

後任のセンター長は、2年目に私が乞い、参加してもらった人物であった。人間としては信頼できるが、期待したほどには苦労をともにしてもらえなかったというのが私の気持ちだった。順当な人事ではあったが、労せずして私の後を襲うのかと考えると、嫉妬心が頭をもたげそうになった。しかし、嫉妬はあさましい感情と考え、まるで無いかのように自分を欺き続けていたのである。

仲間の言葉を受けて、自分の感情を認めようと観念したとたん、憑き物が落ちたように気持ちが軽くなった。同時に、自分の成し遂げたことへの執着を手放すこともできた。ぐずぐずと不調が続いていたのは、抑圧していた嫉妬心や過去への執着心が原因だったのかと目が覚め、その根本にあった自分の傲慢さにも気づくことができた。

原稿にダメを出されて、自分を見つめ直し、ささやかな1本のマッチ棒のような存在にすぎないという自己概念を得たことも収穫の1つだ。自分が湿気ていても、対象が湿気ていても、うまく火はつかないので、下手をするとしょんぼり燃え尽きてしまうことがある。ところが、世の中には、踏んでも水に浸けても火が消えないマッチがあるのだ。その動画を目にし、随分励まされた。自分を元気づける必要がある時には、その映像を思い出している。

この10年は、私にとって、自分探しの旅であったと思う。今は旅を終えて、自分自身を見つけられた安堵感に包まれている。50歳という節目をまたぎ、自分の至らなさを受け入れて、過去への執着を手放すことができた。そして、本来の自分らしさが未来に向けて躍動していると感じられることの、何と幸せなことか。

若い頃に旅をしなかったかといえば、そうではない。大学時代には、バックパックを背負って友人と二人、世界一周旅行を経験した。社会人になってからは、挑戦し甲斐のある課題を与えられ、夢中で取り組んできたことも、ある意味では旅といえるだろう。おかげで退屈することなく、40歳までを駆け抜けてきたと思っている。

しかし、40歳までの旅が、視野を広げ、経験を積みながら、力を試す旅だったとすれば、この10年間、特に最後のつらかった数年こそが、本当の意味で自分探しの旅だったのではないか。自分がどのような生き方をしたいのか、社会のために自分をどう活かすのかということを、初めて深く考えたように思う。

ライフキャリアアドバイザーとして、残りの人生でじっくり取り組みたいと考えているテーマが、大学で専門科目や卒論のテーマを選択した時と同じ興味・関心に動機づけられていると気づいたのは、つい最近のことである。そして、これからの自分の生き方に対する確信が芽生えた。

いずれまた、自分を見失い、さ迷う時がくるのであろうか。それは、わからない。わかっていることは、生涯をかけてささやかでも自分のなすべきことに着実に取り組み、未来に対して責任を持つ一人の人間として、社会に貢献していきたいと願う自分自身が、今ここにいるということである。

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