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孫子の至言―険しい坂を乗り越え、起死回生の勝利を得るために

2012年01月17日

田口佳史
東洋思想研究家、株式会社イメージプラン代表取締役社長

はじめに

「人生孫子」として

 兵法書の古典として広く世界で読まれてきた『孫子』は、近年になってアメリカを中心に、「経営戦略を学ぶ教科書」としての価値がとみに注目されるようになりました。

 その大きなきっかけは「9・11」、2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件です。世界を震撼させたこの事件が、急激な進化と拡大を続けるビジネスのあり方そのものを問う動きを呼び起こしたのです。

 従来、ビジネススクールなどで教える戦略論と言えば、だいたいがフォードとGMのアルフレッド・スローンの構築したものでした。でも、「それらはいったいどこから来たのか」という話になって、やはりクラウゼヴィッツの『戦争論』だろう。「じゃあ、戦争論のルーツは何だ?」ということで、『孫子』に行き着いた。そんな経緯があったわけです。

 つまり、とてつもない断崖絶壁に立たされたとき、そこを乗り越えて起死回生の勝利を得るためには、もはやその場その場の手練手管は通用しない。根本から戦略を見つめ直す必要があったということだと思います。

 ですから当然のことながら、アメリカでは『孫子』はもっぱら「ビジネス孫子」「経営孫子」として読まれています。『孫子』は生きるか死ぬかの瀬戸際にあるときに一段と凄みを増す兵法書ですから、それも悪くはないでしょう。
 けれども、私がテーマとするのは、これまでにはなかった「人生孫子」という新しい視点です。愉快で幸せな人生を生きるための「人生の戦略書」として、『孫子』を読み解くことを試みているのです。

 これがまた、哲学書を読むようで、非常に味わい深いんですね。
 もちろん、『孫子』は戦争を想定したものですが、人生はまさしく戦いの連続です。そういう意味では、戦う相手たる「敵」は人間もしくは人間で構成される組織だけではありません。天災を含めて個々の人生に降りかかる、ありとあらゆる困難を「敵」と見なすことができます。

 また「勝つ」とは、命の火が消えるそのときに、「いろいろあったけど、愉快な毎日だったなぁ。幸せな人生だったなぁ」と心から思えるような、より良い人生を実現することです。
 ようするに、「人間(じんかん)万事塞翁が馬」とか「禍福は糾える縄のごとし」などと言われるように、何度か負けを喫しながらも、その負けによってより大きな勝ちがもたらされるかどうかが、人生における勝負だということです。

 そんなふうに捉えたとき、『孫子』は「人生孫子」としての輝きを増します。
 結論を先に言うなら、目の前の「見える敵」と戦うための浅知恵なんかじゃなく、「どんな困難にも負けない、屈しない、翻弄されない強い自分をつくるにはどうすればよいか」。そのための精神論・方法論を求めて読み解くのが「人生孫子」なのです。

最大のメッセージは「有事の備えは平時にあり」

 日本はいま、2011年3月11日に発生した東日本大震災ならびに福島第一原子力発電所の事故を境に、国づくりを根本から見直し、新たな価値創造にドラスティックな変革が求められる、大きな転換期を迎えています。
 巨大な津波に呑み込まれた太平洋沿岸の多くの町の、あるいは放射能の拡散により機能停止に陥った町の、あの悲惨な状況を前にすると、言葉を失うばかり。人間が創り上げた文明の脆さに思い至らずにはいられません。

 私自身は、「3・11を生き延びた人間は、被災された方の悲しい訃報を、自分の身代わりになってくれた人たちであると思うべきだ。彼らが身を挺して、生き方を改善してほしいというメッセージを残してくれたんだ」と考えました。
「ならば、田口は何を改善するのか」と問われれば、「命と自然を大切に生きてきた日本人の暮らしを取り戻すことに努める」と答えたい。

 日本人はいつしか、経済性とか効率とかビジネスを優先させて、命や自然を軽視するようになっていなかったか。だから、自然の脅威に叩きのめされたのではないか。もう一度、「生きとし生けるものすべてに命が宿っている」という日本の伝統的な精神文化を取り戻すべきだ。そう思うのです。
 みなさんのなかにも、「3・11」以来、それまでの価値観の転換を強いられたように感じている人は少なくないと推察します。実際、
「とにかく目先の利益を追い求めて、経済的豊かさや地位、名誉などを手に入れることが人生の成功であり、幸福である」
 と信じて疑わなかった”鉄壁の価値観”が、ガラガラと音を立てて崩れていく感覚に陥った、というような話をよく耳にします。

 また一方で、今回の天災・人災に対して後手後手に回る行政のていたらく、国難の最中にあって混乱を極める政局などを目の当たりにして、「非常時にこそリーダーシップが問われる」ことを痛感した人も多いでしょう。
 その裏返しと言うべきか、私のところにも企業や行政機関などから「非常時のリーダーシップをテーマに孫子の講義をして欲しい」という依頼が数多く舞い込んでいます。
 日本全体が未曾有の危機にさらされている、そういう時代だからこそ、日本人は『孫子』を読んだほうがいい。私はそう考えています。

 これからの生き方を考えるとき、孫子はこんなメッセージを送ってくれます。
「平素から、何物にも負けない強い自分をつくることを心がけなさい。そのなかで戦いに勝つ力を蓄えておきなさい。そこに、自分を向上させるという大きな喜びを見出しなさい。それこそが生きる醍醐味です。
 しかし、戦わないという選択肢もあります。怖いから戦わない、力がないから戦わない、というのではありません。力があっても、戦わない人間になる必要があるのです。ポイントは『有事の備えは平時にあり』ということです」

今回の災害を一つの教訓にして、たくましく生きていくという観点からも、私たちは孫子の言う「平時の備えの重要性」を改めて認識しておくべきでしょう。

上り坂の儒家、下り坂の老荘、険しい坂の孫子

 俗に「上り坂の儒家、下り坂の老荘」と言われます。これはどういうことか。

 仕事でも人生でも、うまくいっている上り坂のときは、「現行肯定プラス改善」の儒家の思想――基本的にやり方を変えずに、ちょっと改善を加える程度にして、好調のままどんどん進んでいく。
 でも、何をやってもうまくいかない下り坂のときは、「現行否定」の老荘思想――やり方を百八十度変えて軌道修正を図る。

 そんなふうに、状況に応じて、儒家の思想と老荘思想を使い分けて生きることを意味します。

 この考え方のもとで、私はすでに光文社から『論語の一言』と『老子の無言』という二冊の本を出させていただきました。これらをセットで読んで、中国の二大古典思想を軸に、愉快な人生を歩むヒントにしてもらいたかったのです。

 しかし、いまという時代を考えたとき、この二冊だけでは「何か、足りない」と感じました。それが、言うなれば「険しい坂の孫子」なのです。
 下り坂どころか、もうにっちもさっちもいかない。目の前にとてつもない困難が立ちはだかっている。その険しい坂を乗り越えて、人生を起死回生の勝利に転じていかなければならない。そういうときに、『孫子』は非常に良い人生の指南書になりうるのです。

 では、「険しい坂」とは何なのか。
 これは「都市生活の弊害」と言い換えてもいいでしょう。私たちは文明の恩恵に与(あず)かって、非常に便利な生活を手に入れました。しかし反面、都市には人間の心身を疲弊させる要素がたくさんあります。
 たとえば、たまに山登りをしたり、海で泳いだりなど、自然と親しんで過ごすひとときを持つと、心身がみるみる元気になりますよね?
 それは、人工的なものに囲まれて、ほとんど体を動かさずに過ごす都市生活から解放される気持ち良さにほかなりません。
 都市はどうしても、人の心身を鬱屈させてしまうのです。
 加えて、狭い空間に大勢の会社や人がひしめき合う都市の環境にあっては、いがみ合いや争い、競争などが起きないほうが不思議なくらい。現代人はビジネスでも日常でも、常に競争社会のなかで生き残りを賭けてがんばるしかないのが実情です。

 成果をあげようとすれば、ときに非人間的なこともしなくちゃならない。
 自分の本意ではない行動を求められることもある。
 競争のなかで、信頼していた人に裏切られることもある。
 自分の意のままにふるまおうとしても、周囲から集中砲火を浴びて、意を捻(ね)じ曲げられることもある。
 そういったことがどれほど人の心身を疲弊させるか、ということです。

 誰しも、身に覚えがありますね? 私のセミナーにやってくる人たちも、たいていが都市生活に苦しめられ、どう生きればいいのか悩み、迷っているように思えます。
 そう、現代人は誰もが多かれ少なかれ、自己を欺いて生きることにかなりくたびれているのです。
 そこにあるのが「険しい坂」であり、これを乗り越えるためには「強い自分」をつくるしかない。だから、『孫子』が必要なんですね。

 人間というのは弱いものです。現代人は大変生きにくい巨大な都市空間のなかで一人ひとりが何とか自分の夢を成就させようと日々悪戦苦闘していますが、それをより良い方向に向けていくためには、生きる意欲を持続させる精神の支えとなるものが必要です。いわゆる「座右の書」ですね。
 その一冊にぜひ、『孫子』を加えていただきたい。険しさや厳しさがついて回るときにこそ、『孫子』に問題解消のヒントを求めていただきたい。

 そんな思いからこのたび『孫子の至言』を出させていただきました。そして願わくば、この『孫子の至言』と併せて『論語の一言』『老子の無言』を、さらには原典にもアプローチして、「上り坂の儒家、下り坂の老荘、険しい坂の孫子」という考え方をもって愉快な人生を歩んでいただきたいのです。

 『孫子の至言』が生きる叡智として、みなさんの心に豊かな実りをもたらすことを、心より願っています。
 なお、『孫子の至言』では一言一句を解釈する手法を取っていません。自ら、新たな「人生孫子」を構築する気概をもって、読んでいただきたいからです。どうぞ自由に、孫子の世界で遊んでください。より愉快で幸せな人生を生きるために。

※2012年1月に出版された田口佳史著『孫子の至言 険しい坂を乗り越え、起死回生の勝利を得るために』の「はじめに」より著者および出版社の許可を得て転載。無断転載を禁ずる。
※『孫子の至言』は、『論語の一言』『老子の無言』同様、慶應MCC agora(アゴラ)における講義「田口佳史さんに問う中国古典 【人生の戦略書・孫子】」(2011年4月~7月・全6回)をもとに、構成・編集したものです。

田口佳史(たぐち・よしふみ)
田口佳史

  • 東洋思想研究家、株式会社イメージプラン代表取締役社長

1942年東京生まれ。新進の記録映画監督として活躍中、25歳の時タイ国バンコク市郊外で重傷を負い、生死の境で『老子』と出会う。奇跡的に生還し、以降中国古典思想研究四十数年。東洋倫理学、東洋リーダーシップ論の第一人者。企業、官公庁、地方自治体、教育機関など全国各地で講演講義を続け、1万名を越える社会人教育の実績がある。 1998年に老荘思想的経営論「タオ・マネジメント」を発表、米国でも英語版が発刊され、東洋思想と西洋先端技法との融合による新しい経営思想として注目される。

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田口佳史さんと楽しむ中国古典【老子】(2018年4月9日開講)

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