ピックアップレポート
2017年10月10日
川野 泰周『あるあるで学ぶ 余裕がないときの心の整え方』
禅とマインドフルネス
私は、神奈川県横浜市にある臨済宗建長寺派の禅宗寺院の一人息子として生を受けました。
先代住職だった父は病気を患い、私が高校三年生のときに亡くなりました。本来、跡継ぎである私は少しでも早く実家の禅寺を継ぐべきでしたが、思うところがあり、医学部に進学させていただくこととなりました。大学卒業後は大学病院をはじめとするさまざまな医療機関で精神科医として診療に従事し、三十歳になってからようやく鎌倉の大本山建長寺専門道場(建長僧堂)へ入門したのです。
三年半の修行生活を経て、現在は横浜市の寺院で住職を務めています。そしてありがたいことにご縁をいただききまして、再び都内や横浜市内のクリニックで精神科医としても診療に従事させていただいています。
唐突ですが、人間にとっての幸せとは何でしょうか?
私たちはどうしたら、「幸せである」状態で居続けることができるのでしょうか?
近年、注目を集めている「ポジティブ心理学」の理論は、「誰かのためになるよう、支援の手を差し伸べること」そして「支えられていることに感謝し続けること」こそが、幸せの秘訣であると教えてくれています。
大学を出た後、精神科医として六年間診療に従事していたとき、私は目の前の患者さんに、最も適合する薬剤を処方することを最大の使命と考えていました。患者さんのお話を聞きながらも常に、「今日はどのように薬を調整しようか」「前回と同じ処方で大丈夫だろうか」といったことばかり考えていたのです。禅の修行をする前の私は、「自動操縦」「心ここにあらず」の状態だったのです。
その後、臨済宗の大本山・鎌倉五山第一位として知られる建長寺の専門道場で老師に師事して三年以上に渡る厳しい修行生活を送る中、「目の前のことだけを考え、必死に取り組むこと」を心の中に落とし込んでいきました。
修行を終えて生まれ育った寺の住職として働きながら、私は週に何日かの精神科診療を再開しました。すると数年前とはまったく違った思いで患者さんの話に耳を傾けている自分に気がついたのです。
目の前にいる悩める人の気持ちが、すっと心の中に入ってくるようになったのです。患者さんのネガティブな感情に引き込まれるのでもなく、ただ湧いてくるのは
「この人のためにできることは何だろうか?」
というシンプルな思いだけでした。その思いに従いながら精神医学の世界をもう一度眺めたとき、たくさんの非常に優れた心理療法たちが笑顔で待ってくれていたのです。
もちろん薬物療法は大切です。今も世界中で、多くの心を病んだ人たちを支える治療の主軸となっています。大切なのは薬物療法と心理療法のいずれか一方に偏らず、その人の心を軽くするお手伝いができるよう工夫して取り入れていくことにあると思います。
私たちの存在自体がそうであるように、心の治療も禅語で言うところの「衆縁和合(しゅうえんわごう)」、たくさんのご縁が積み重なって一つを成していくことに答えがあるのではないでしょうか。
本書は、そんな私の医学や禅で得た智慧をもとに、心の整え方を紹介していきます。その中でも、マインドフルネスのことを中心に紹介しています。
そもそもマインドフルネスとは何でしょう。
「今この瞬間に、価値判断をすることなく、注意を向ける」
これこそがマインドフルネスの定義です。
マインドフルネスは、欧米を中心に注目を浴びている心理療法の一つで、そのルーツは禅にあります。
ブッダが悟りを開いて最初にした説法の中で、人の心に真の救いをもたらすための八つの事項を伝えた「八支正道(はっししょうどう)」の七番目に登場する「正念(しょうねん)」を英語で表現した概念と言えます。
八支正道とは、お釈迦さまが教えてくれた人間が正しい生き方を実践するための八つの方法を表します。「八支の一つでも実践すれば、残りの七つの精神もおのずと動き始める」というイメージも大切です。その考えを具現化したものが「法輪(ほうりん)」という、仏具であります。
マインドフルネスをはじめて治療に導入した先駆者は、米国マサチューセッツ大学医学大学院の名誉教授ジョン・カバットジン博士です。近年、このマインドフルネスに全世界規模で大きな注目が集められています。
その背景には、IT時代の到来による急激な情報量の増加と、それに追いつくことを必須とする社会構造、増え続けるテロや戦争、世界経済の先行き不安など、さまざまな要素が考えられます。
いくつものタスクを同時にこなさなければならない状態がこれほどまでに多くの人に対して課せられるようになった現代社会は、ある意味異常事態とも言えるでしょう。
多くの人が「心ここにあらず」の状態、いわば自動操縦されているかのごとく動き回る現代の暮らしの中でさまよう心は、基準点を見失います。不安と葛藤にバランスを失った人は「心の病」にかかっていくのです。
マインドフルネスは、そんな心の調和を乱してしまった人たち、もしくは心が乱れつつある人たちに、「生き生きとした本来の心」を取り戻すための「原点回帰の秘法」として、至極当たり前のように流布したと言えるでしょう。
そしてその根元にある概念が、私たち日本人になじみ深い「禅」なのです。禅修行としてよく知られている「坐禅」だけでなく、禅の修行道場では掃除、料理、食事、草むしり、入浴から排せつに至るまで、生きている限りすべての瞬間が「今この瞬間」であって、それに全力で集中して取り組むことで成り立っています。
私は幸運にも禅寺に生を受け、三年半に渡って禅の修行を経験したことで、マインドフルネスというものが己の心にいかなる作用をもたらしたのかを、体感できました。そして、精神科医として学んできた「人間の心における医学的解釈」と自らの中で和合を得たことで、これからの時代を生きるすべての人に、禅とマインドフルネスが限りなき勇気と力を与えるものであることを確信したのです。
禅の中から宗教的な要素を外すことで、仏教への親しみの薄い欧米の人々に広く受け入れられるようになったマインドフルネス。その心身への効能はジョン・カバットジン博士が発表して以降、多くの研究者たちによって明らかにされてきました。
疾病治療の観点からは、うつ病、不安障害、疼痛疾患など、さまざまな精神・身体疾患に対する効果が証明されています。
一方、健康状態の人に対しても「集中力・注意力の向上」「ストレス耐性(レジリエンス)の強化」「創造性(クリエイティビティ)の増大」といった効能があるとされ、企業における能力開発として研修に取り入れられています。
しかし私は、マインドフルネスが持つ「第四の効能」を最も強調したいと考えています。
「他者への思いやりと共感性」
これこそマインドフルネスが心の最も奥底の部分に触れる、真の影響であるということです。
近年、欧米各国から多くの外国人が「禅の本拠地」とも言える鎌倉を訪れています。マインドフルネスを熟知した彼らが、なぜ宗教色の強い「禅」をあえてその目で見たいと考えるのか。その答えを日本人は自然に培っています。いや、培っていたと申し上げた方がよいかもしれません。
「不立文字(ふりゅうもんじ)」すなわち言葉にしなくても伝わる思いやりや優しさです。
そんな当たり前の心すら、荒れ狂う時代の波に流されてしまいつつある今だからこそ、日本人、外国人の別なく禅の精神に触れていただきたいのです。
「禅とマインドフルネスは何が違うのか?」
よく聞かれる質問です。私の答えはとてもシンプルで、「全く同じ」に尽きます。あえてたとえるなら野球とベースボールの違いにがそれに近いでしょうか。
言葉と作法は少々違えど、禅とマインドフルネスの根底に流れる「思いやりと慈しみの精神」は共通のものだからです。
仏教には「諸法無我(しょほうむが)」という言葉があります。この言葉は自分と他者とは区別がないという意味ですが、同時に自分自身が宇宙の中で小さな存在であることを悟らせる意味があります。森羅万象の中で自分はちっぽけな存在だと知ることで、慎み深くも穏やかな心持ちになることができるのです。この精神もマインドフルネスの考え方と完全に一致します。
『あるあるで学ぶ 余裕がないときの心の整え方』でさまざまな実践法をご紹介するマインドフルネスは、日本の禅のエッセンスをふんだんに盛り込んだ、「心を軽くする治療法」です。その源流にはブッダの悟りの智慧がすがすがしく散りばめられています。
全世界レベルで急速に広がりを見せるこのマインドフルネス瞑想は、もはや病を治す治療法にとどまらず、若い人からお年を召した方まで、あまねくすべての人の「幸せ力」を高める方法として認知されるところとなりました。
私はこの本を、宗教書として書いたのでも、精神医学の専門書として書いたのでもありません。日々を忙しく送るビジネスパーソンの方々、家庭を支える主婦の皆さん、将来を模索する学生さんなど、時にはちょっぴり苦しくても何とか毎日を懸命に生きている、すべての人たちへ宛てたメッセージとして書かせていただきました。
心を健康に保ち、いつも幸せに包まれて「今を生きる」ための智慧が、禅とマインドフルネスの中にあふれています。そのことを少しでも多くの方に知っていただきたいと祈り続ける中で、このような本を書く機会をいただけたことをまさに幸せと感じています。ありがとうございます。
「精神科医の禅僧」である変わり者の私が、皆さんの日々の健やかなる心づくりに役立つさまざまな「ワザ」を、少しばかり分かりやすくお伝えいたします。どうかお気楽に、お好きなところからページをめくってみてください。
安らかなる呼吸とともに。
『あるあるで学ぶ 余裕がないときの心の整え方 ―マインドフルネス入門―』の序章を著者と出版社の許可を得て掲載しました。無断転載を禁じます。
- 川野泰周(かわの・たいしゅう)
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- 精神科医、臨済宗建長寺派 林香寺住職
2004年慶應義塾大学医学部医学科卒業。臨床研修修了後、慶應義塾大学病院、国立病院機構久里浜医療センターなどで精神科医として診療に従事。2011年より建長寺専門道場にて禅修行。横浜市にある臨済宗建長寺派・林香寺で住職を務める傍ら、複数のクリニックで精神科診療にあたり、薬物療法や従来のカウンセリングだけでなく、マインドフルネス瞑想や禅の要素を積極的に取り入れた診療を行っている。精神保健指定医・精神科専門医・医師会認定産業医。
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