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総合政策にとってのネットワークの『意味』を考える

2005年03月08日

國領二郎 慶應義塾大学環境情報学部 教授

1.変わる社会、変わる学問、そして総合政策学
総合政策学はネットワーク化の文脈の中で、新しい学問の形を構築する運動と位置づけることができる。すなわち、ネットワークによって高まるコミュニケーションの即時性や、双方向性や、末端-場面にいる人々-のエンパワメントなどの要因が、社会や学問を取り巻く環境を変化させることに対応した、新しい学問の構築である。


より踏み込んで論じるには、少なくとも三種類の局面に分けて「ネットワークの意味」を考える必要があるだろう。第一はネットワーク化が社会のあり方-そしてその文脈における政策のあり方-を変化させている面である。有史以来、武器や交通手段と並んで、通信手段は統治の形に大きな影響を与えてきた。インターネットも当然大きな影響を持つだろう。第二はネットワークが学問の方法論にもたらす新しい可能性である。情報の入手からその処理にいたるまで、情報技術の発達はこれまでの学問の制約条件を大きく変えている。斬新な調査、分析方法が可能で、それは恐らく知の形成方法論に影響を与えることだろう。第三は学問と社会のかかわり方の変化である。好むと好まざるとに関わらず、ネットワークは学問の場と政策の現場も近づける。その中で学問は厳格性と実用性を同時に追いかけることになる。
以下、このような三局面において、ネットワーク化の各種要因がいかなる意味を持つかについて、あえて刺激的な論点を提供することで、シンポジウムにおける議論を深めるきっかけを提供したい。
2.ネットワーク化による政策の変化 ―集権による統治から見識による統治へ―
まず、政策の前提となる、社会のあり方そのものに対するネットワークの影響を考えてみよう。たとえば「末端」にいる人々のエンパワメントというテーマがある。これが起こる背景には情報の発信コストの劇的低下がある。
少し歴史的な文脈で考えると、インターネットが広がる直前までの150年ほどの間は、19世紀の輪転機、20世紀の放送などによって、中央に集まった情報を多くの人間にばらまく費用はどんどん低下してきた。反面、場面に散在する情報を他の多くの人間と共有するコストは高止まりしてきた。このような状況が存在する時には、中央に情報と情報処理能力(優秀な人材)を集め、集中的に情報処理を行って、結論を放送などによってばらまくことが社会的に効率的だったといえる。黒船来航以来、国家存亡の危機に迅速に対応するために、集権的な政府を作り、鉄道、電信、放送などを作ってそれを支える構造を作り出してきたのにはそれなりの合理性があった。
1990 年代におけるインターネットの普及は、この基本的な構造を変えた。大衆がブロードバンドネットワーク上から情報を受発信しうることになった現在、社会の片隅にいる人間が、地球の裏側の国の政府データベースにアクセスし、自国の中央政府よりも適確な情報を得ることもできる。また、中央でオーソライズした指導要領にかえて、現場で教育のベストプラクティスを編み出した人間に直接教えてもらうことができる。
そのような情報が限りなく即時的に流れるところも大きな変化である。米軍がイラクの刑務所において虐待事件を起こした時、当初慎重な報道姿勢をとった日本のメディアをバイパスして、メーリングリストなどを通じて所在を知った海外のサイトから直接情報を取ったのは筆者だけではあるまい。このようにメーリングリストのようなコミュニティの媒体と、多様なマス媒体の組み合わせで情報がどんどん伝播していく。
これらの変化は概ね集権的な構造を分散的なものにする可能性を示唆している。従来型集権組織の、情報への特権的アクセスを権力のよりどころとして統治を行う方式に対して、情報を共有しつつ構成員が全体像を把握しローカルに統治を行う自律分散的な社会構造である。
従来の集権的構造に対比したとき、自律分散構造メリットは人間の能力を自由に発揮させるところにある。機械の進化によって、かつて問題であった物理的な力や定型的業務処理能力不足などは、いまや社会をよりよくする上でのボトルネックでなくなりつつある。反面、人間の能力の向上は遅々たるもので、新たなシステム改善上の最大のボトルネックは、人間の創造性や調整能力になっていると考えられる。
一番現場を知っている人間が(ネットで共有されている情報をもとにグローバルな大局を理解しつつ)現場に即した調整や意思決定を行う仕組みと、限られた人間だけが現場から遠く離れて集権的に情報処理をしている状態では、システム全体としての処理能力に決定的な差がついてしまう。新しい状況への対応が遅れた組織にとって、それは意思決定の遅さや、不的確な判断となって現れる。風通しの良い組織と悪い組織で実力に決定的な差が出てしまう時代だ。
但し楽観は禁物だ。自律分散的な環境の中で「協調」をいかにして生み出していくかが難問であるし、政策を考える上では重要なポイントとなろう。恐らくは「説明力」、「説得力」といったものが、情報専有にかわる力の源泉ということになると思われる。これを見識による統治と言ってもいいのかもしれない。ただし、何がそのような説得力の源泉となるのか、誰が影響力を持つのかは現時点では定かではなく、総合政策学が解明すべき大きなテーマということになろう。
見識による統治が失敗した時に、集権的な構造が再度強化されて社会の前面に出てくる可能性も念頭においておいた方がよいだろう。RFID技術などは、扱い方を間違えると中央から末端の情報を集め、監視型の社会を作る強力な道具となりかねないことに注意したい。近年高まる安心感への要求が、集中管理的な安全のメカニズムを構築する圧力となって働いていることにも留意したい。
異論を覚悟であえて提起すると、そのような逆行の可能性もあるがゆえに、集権的な構造への回帰を防ぎ、自律分散協調的なガバナンスのメカニズムを実際に機能させる設計を行って、構築・運営にまでコミットしていくのが総合政策学に与えられた歴史的な役割だと主張したい。その成否によって総合政策学が伝統的な政策科学への一時的な分派活動に終わるのか、大きな流れの指針となるのかが決まるといえるのではないだろうか?
3.ネットワーク化による調査方法の変化―脱科学?―
社会のあり方を変えていくように、ネットワークは学問のあり方そのものに変化をもたらす。既存の学問体系は情報伝達-特に場面情報の共有-に制約があることを前提として編み出されてきた。ところが、その根本がいま変わりつつある。その中で学問のあり方も変化すると見るのは、変わらないと考えるより自然だろう。
たとえば現在、社会科学の技法として、集権的国家によって集められた統計データをもとに、仮説検証型の推論を行うことが一般的に行われている。情報伝達コストが高く、中央に情報を集約することが情報の経済合理性にかなっている時には有効な技法であった。しかしながら、この手法には、事前に定義された分類にもとづき数値に集約された情報しか入ってこないという弱みがある。また、調査が大規模になるほど、情報の収集にコストと時間がかかって、ダイナミックに変化する場面の状況を必ずしもタイムリーに把握することができない。結果として「過去を分析する」ことには役立っても、「未来を設計する」ためには使えない場合も多い。統計の取り方を変更することによってデータの連続性が失われるといったことも心配しなくてはならない。
過去の限界を突破して新しい知の可能性をひらいてくれるのが、ネットワークの上に発生し、蓄積される情報を直接データとして扱う手法であり、その際に特定の仮説をもたずに、データそのものから「意味」を抽出し、利用可能な知見を引き出す方法である。このような手法は情報伝達インフラストラクチャも未熟で、情報処理能力にも限界があった時には考えられなかったことであろうが、今ならネット上に存在する情報を(イ)サンプリングすることなく、母集団を対象に分析を行い、(ロ)「仮説によらず情報をマイニングすることによって知見を導出」することができる。さらには、(ハ)過去を分析するのではなくリアルタイムに現在を分析することも可能だ。さらには、(ニ)能動的に働きかけを行って反応を見る実験的なアプローチを取ることも可能であろう。
これらの方法上の変化は恐らく学問のあり方自体に大きな影響を与えるものだ。歴史の文脈の中で考えると、上述の方法論は、理論体系から演繹を行って導出した仮説を検証することをもって体系の発展を目指す、論理実証主義的な伝統からは外れたものである。もし論理実証主義が社会を題材とする学問を自然科学に寄せる「科学化」を目指すものであるとすると、我々の動きは政策学の「脱科学化」をもたらすものと言ってもいいかもしれない1。
さらに奥深いレベルでは、研究における主体と客体の関係の問題に行き当たる。近代科学が、主体を観察対象から切り離し「客観的」に観察することをもって妥当性の拠り所としてきたとするならば、ネット上での調査は、どんなに静かに行ったとしても、それ自体が情報発信に参加し、文脈を形成する行為となり、客観性は担保されない。社会的な実験を行う方式に至っては、能動的に文脈を作り出す作業ということになる。それはほとんどの場合、自然科学のように同じ条件を繰り返し設定することを不可能とする不可逆的な実験となって、反復して行うことを放棄することにつながる。結果として得られる知見の一般性には従来の科学の観点からは疑問が残るもの、ということになろう。しかし、だからと言って、我々は探求をやめるべきではないだろう。それが科学と呼べなくても探索すべき知のフロンティアがそこにあるからだ。
自然科学を模倣するという態度をあえて放棄するとしても、それは総合政策学が厳格さを放棄するという意味ではない。知の信頼性を高めるため、得られた知見の「反証可能性」を重視する姿勢は維持していくべきだろう。その意味では、少なくとも現時点において、ネットワーク上に現れている情報の網羅性や代表性にはやはり問題があって、このような手法で得られる知見に妥当性については慎重な検証が必要だろう。
4.学問と実社会の関係:行動する学問
ネットワーク化された社会の自律・分散・協調社会構造の中で、見識こそが統治-力-の源泉となること、知は現実社会とのリアルタイムの相互作用の中から生まれ出るものであること、などといった基本認識に至ったときに、あるべき総合政策学の姿が浮かび上がってくる。
それはまず何より、自らが現実の問題に取り組み、政策を提案するだけでなく、実行の役割を能動的に果たす姿勢だ。自律・分散・協調の社会構造の中では、統治する側と統治される側が分かれることもなく、サービスを提供する側とされる側も分かれるわけでもない。全ての人間が統治者であり、サービス提供者である。その文脈の中では進むべき方向を説得力ある形で示す見識の提供こそが政策の重要な構成要素となる。
そのような見識は既存の理論から演繹されて生まれるのではなく、現場との濃厚な関わりの中で生まれる。どこか遠い空の下に政治家や官僚が行った政策を事後的に「客観的」に分析するのではなく、実際の社会で課題となっていることに対して、解決策を立案し、その実施に向けてコミットすることを通じてより濃密な知見を得ていく。
そのような実社会との双方向的な関係を構想した時には、「一般性」に対して従来と異なる態度を取るべきことも提起しておきたい。すなわち「科学」から呪縛を捨てることで、「一般化」への必要以上のこだわりから自由になる。ダイナミックに変化する社会に、より的確な見識を提供するためには、「統計的有意性」が検証できるほど類似の事象が起こるのを待つわけにいかない場合も多い。萌芽的に観察された数少ない事例を徹底的に分析し、得られた知見に対して徹底的に対抗仮説をぶつけて検証し、意思決定に間に合うように知見を提供する方が、全て終わってしまった後になってから、より一般性の高いモデルを提示されても後の祭りである。
このように考えていくと、本政策COEの役割もおのずと明確になる。すなわちネットワーク時代に相応しいリアルタイムに広く世界と接し、影響を与え、フィードバックを得る学問のサイクルを完成させ、多様で変化する場面に合わせて持続的に運用していくことのできる体制を整えることである。その実現に向けて、さらなる努力を重ねたい。
注釈:
1 我々が既存のディシプリンからの自由を唱えるのも、世間で誤解されているような「現象に合わせて場当たり的に理論をつなぎ合わせる」ことを目指しているのではなく、生のデータをあるがままに受け止めてそこに発見される法則性を抽出する作業を重視するからだ。
國領研究室のホームページより転載
21世紀COEプログラム「日本・アジアにおける総合政策学先導拠点―ヒューマンセキュリティの基盤的研究を通して―
(国際シンポジウム「総合政策学の構築に向けて」コンセプトペーパー)

國領二郎
慶應義塾大学環境情報学部教授
東京大学経済学部経営学科卒業後、日本電信電話公社勤務。 その後、ハーバード大学経営学修士(MBA)、経営学博士(経営情報システム専攻)修了。 慶應義塾大学経営管理研究科教授を経て現職。専門は、経営情報システム。

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