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2006年01月17日

福澤諭吉のキャリアデザイン

長谷山 彰 慶應義塾大学文学部教授、前学生総合センター長

はじめに
幕末から明治へ! 福澤諭吉はその生涯において明治維新を境に近世と近代を半分ずつ経験し、20世紀を迎えた年に68歳でこの世を去った。中津の下級藩士の二男として生まれ、2歳で父を失った福澤はどのような志を抱いて人生を切り開き近代の黎明期を駆け抜けたのであろうか。


塾生よ 実業界をめざせ
「銀行、生保、商社、出版、新聞、ホテル」
塾生の就職先ではない。明治の初期、福澤諭吉が直接間接に起業に関係した主な業種である。
福澤は門下生に説いて近代化途上の日本が必要としていたさまざまな産業の経営に当たらせた。外国銀行による為替業務独占の弊害を訴える横浜商人のために政府に働きかけ、小泉信吉を副頭取として横浜正金銀行(後の東京銀行)の設立を実現している。早矢仕有的(はやしゆうてき)は丸善の屋号で医薬品や洋書を扱う丸屋商社を起こした。三井財閥中興の祖といわれる中上川彦次郎、三菱合資会社支配人として三菱財閥を創り上げた莊田平五郎、多くの門下生が財界で活躍した。福澤自身も明治2(1869)年に「福澤屋諭吉」の名で書物問屋組合に加入し、自ら出版業に乗り出している。これがのちに慶應義塾出版局に発展した。
「一身独立して一国独立す」、政府の力に寄りすがるのではなく市民の力を充実させることが真の立国につながると主張した福澤にとって、政・官界と並び立つ財界を創り上げることは思想の実践にほかならなかった。
持続する志が夢を大きく育てる
門下の青年たちを実業界に送り出した福澤自身は少年期にどのような志望をもっていたのであろうか。『福翁自伝』によれば16、17歳の頃、「おまえはこれから先、何になるつもりか」と兄三之助に問われた福澤が「さようさ、まず日本一の大金持になって思うさま金を使うてみようと思います」と答えて叱られている。これは晩年に書かれた文で誇張もあるし、中津藩士として「死に至るまで孝悌忠信」を守らんとする兄への反発と揶揄から当時最も卑しめられていた商人をあげたにすぎまい。
封建の世に下級藩士の家に生まれた福澤には進路の選択肢が少なかった。福澤の生後18カ月で亡くなった父百助は、生まれた諭吉が大きく丈夫に育ちそうなことを喜び成長したら坊主にしようと言った。後年、福澤は学者の父が封建制度に束縛されて何事もできずむなしく世を去ったことを気の毒に思い、僧侶にしても息子に名を成さしめんとした父の心中の苦しさ、愛情の深さに泣いている。明らかなのは少年諭吉がいつか藩という狭い世界から飛び出し学問修行に打ち込みたいという志を抱いていたことだけである。やはり16、17歳の頃、あんまの稽古に熱中したが、それについて「大志もなにもありはせぬ、ただ貧乏でそのくせ学問修行はしたい、しょうことなしに自分であんまを思いついたことです」と言っている。あんまの技は晩年妻子を相手に披露して笑わせた。
緒方洪庵宅及び適塾(左)と適塾入門帳への福澤の署名(右)門閥制度の中で悶々としていた福澤であったが、風雲急を告げる幕末の時勢が活路を開いてくれる。19歳で長崎へ蘭学修行に出たのを出発点に、大坂の緒方洪庵の適塾で学び塾長を務めるまでになったが、藩命で江戸へ呼ばれ安政5(1858)年、築地鉄砲州の藩邸の一角に蘭学塾を開く。慶應義塾の発祥である。築地鉄砲洲慶應義塾発祥の地記念碑
その頃のちの人生を決定する大きな出来事に遭遇した。ある日横浜居留地を訪ね英語の看板が読めず、自信をもっていた蘭学が通用しないことに衝撃を受けたのである。しかし、これからの世界は英学中心になることを見抜くや、翌日には落胆から立ち直り英語の学習を始める。漂流民の少年でも厭わず発音の教えを乞うなどほとんど独力で勉学に打ち込んだ。1年後、幕府が咸臨丸の米国派遣を決めるや奉行の従者という卑しい身分に身をやつしてまで同行を実現する。その後の福澤の活躍については改めて触れるまでもあるまい。
目的なしの勉強が無限の未来を開く
福澤諭吉の持ち味は将来を見抜く先見性、一旦決めれば迷わず取りかかる行動力、己の信じるところに賭ける冒険心にある。加えて常識や因習にとらわれない柔軟な合理精神と逆境をユーモアで乗り切る性格が大成につながったといえよう。
1835年に生まれ20世紀に入った1901年に世を去った福澤は、明治維新を境に徳川時代と明治時代をちょうど半分ずつ生きた。激動の時代にあって下級武士の子が時勢に流され予想外の一生を送ったようにもみえる。大坂行きも江戸行きもきっかけは兄の勧め、藩の命であった。しかし藩にいて立身出世を求めず幕府に雇われてこれに殉ぜず、かえって蘭学教授、洋書翻訳の役目を超えて自己の能力向上に努めている。今風にいえば「就社」ではなく「就職」の意識であろう。福澤の処女作『増訂華英通語』
ただ福澤自身は若者に対して無目的の勉強をすすめている。江戸では幕府諸藩が西洋の新技術を求めるに急で少し洋書を解する者は翻訳の謝礼で生計を立てることが容易であったが、大坂は町人の町で書生が幾年勉強しても仕事や衣食に縁がない。それでかえって目的なしに学問そのものを楽しみとして苦学する風ができ実力が増したというのである。
確かに青春期に自分の能力やむべき道をはっきり自覚することは難しい。塾員の就職経験談を聞いても思いがけないきっかけから今の道に入り成功した例が多いのである。学生時代はむしろ無目的の学問に専心し、物事すべてに通じる理解力、判断力を養うことが望ましい。そして何よりも世間に流されない独立自尊の人格を形成することが最大のキャリアデザインではないだろうか。
学問の究極は人間交際なり
『学問のすゝめ』福澤のすすめる「学問」の中には人間交際がある。「世の中に最も大切なるものは人と人との交り付合なり。是即ち一の学問なり」(豊前豊後道普請の説)といい、「凡そ世に学問といい工業といい政治といい法律というも、皆人間交際のためにするものにて、人間の交際あらざれば何れも不用のものたるべし。交際愈々広ければ人情愈々和らぎ、戦争を起こすこと軽率ならず」(『学問のすゝめ』九編)と説く。人間に対する信頼、胸襟を開いて話せる寛容さ、年齢上下の隔てなく闊達に交際する気風こそ慶應義塾の伝統であり、人と人との交わりの中で培われる総合的人間力が価値ある資格になる。
塾祖福澤諭吉には何の資格を取りどの職に就くかといった狭い意味でのキャリアデザインはなかったが、巨大な演劇ともいえるその一生は学問と人間交際によって世間を広くすることが最良のキャリアデザインであると教えてくれる。

『塾』 2004年SPRING(No.242)より転載

長谷山 彰(はせやま あきら)
慶應義塾大学文学部教授・前学生総合センター長
1975年慶應義塾大学法学部法律学科卒業、1997年同文学部卒業、1981同文学研究科修士課程修了、1984年同博士課程修了。駿河台大学教授等を経て、1997年より慶應義塾大学文学部教授。博士(法学)。
専門は日本法制史。最近は日本前近代の裁判制度について、日中の制度的比較という視点から研究を進めている。主要著書に『日本古代の法と裁判』(創文社)、『新 裁判の歴史』(成文堂)他多数。

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