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長瀬 勝彦「ミスター・スポックを探して」

2007年11月13日

長瀬 勝彦 首都大学東京 大学院社会科学研究科 経営学専攻(ビジネススクール)教授

ミスター・スポックをご存じだろうか。1966年にアメリカで放送が始まったSFテレビドラマ「スター・トレック」の登場人物である。遠い未来に地球から調査旅行に飛び立った宇宙船U.S.S.エンタープライズ号の冒険物語で、映画化や続編が制作されたこともあって、40年以上たった今でも世界中に熱狂的なファンがいる。俳優レナード・ニモイが演じたミスター・スポックはエンタープライズ号の副長で、地球人とバルカン人のハーフである。バルカン人は人類よりも進化していて、何かというと感情的になる他の乗組員(地球人)を「それは論理的ではない」と冷静にいさめる役回りであった。論理的であるか否かが彼の意思決定基準である。
私の専攻は行動意思決定論といって、人間の意思決定とはどのようなものであるかを研究している。この分野の研究者には、ミスター・スポックに興味を持つ人が多いが、私もそのひとりである。ミスター・スポックという存在を初めて知った時、これから人間も進化して、やがては彼のように余計な感情に妨げられずに純粋に論理的に意思決定を下せるようになるのだろうと素朴に思ったものである。


意思決定とは物事を決めることであるが、やや形式的に表現すると、複数の選択肢からひとつを選び取ることである。私たちの人生は意思決定の連続である。今日のランチで何を食べるかといった日常の意思決定もあれば、就職や転職、家の購入、結婚などの人生の一大事的な意思決定もある。ビジネスやマネジメントにおいても意思決定は重要である。経営者は企業の将来を左右するような巨額の投資について意思決定するだろうし、工場長は生産計画を意思決定する。営業の新入社員も、得意先回りで何を提案するかを意思決定する。
胸に手を当てて思い起こしてみると、人間の意思決定は感情と密接に結び付いていることが分かるだろう。自分の意思決定が成功につながった時の爽快感は格別であるが、逆に過去の意思決定が会社に損失をもたらしてしまったことをくよくよ悔やむこともある。これから意思決定する時に困るのは、選択肢の優劣の見極めがつかないときである。どの選択肢も一長一短で、考えても考えても結論が出なくて、悶々と悩める日々を過ごすこともある。ミスター・スポックになりたいと思うのはそんなときである。彼なら、迷ったり悩んだりせずにさっさと論理的に結論を出せるのではないだろうか。
実は意思決定論には、行動意思決定論のほかに規範的意思決定論と呼ばれる分野がある。論理的で合理的な意思決定とは何かを数学的にモデル化して、数式の世界で議論するのが特徴である。そしてそれを人間の意思決定の改善のために利用しようとするのが意思決定支援の考え方である。ミスター・スポックにはなれなくても、彼ならおそらくこうして意思決定するだろうという想像はできる。選択肢を複数の構成要素に分割して、それぞれを評価して点数を与え、要素の重要度にしたがって重みを付けて合計すれば、選択肢の点数が求められる。すべての選択肢について点数を計算して、最高点の選択肢を選べばよい。このプロセスは面倒な計算を伴うが、人間の脳は計算能力が乏しいので暗算では計算できない。人間が意思決定に悩むのはそんなときである。ならばパソコンなどを使って計算の負担を軽減すれば、悩まずに簡単に意思決定できるだろう。これが規範的意思決定論の考え方であり、この発想に立った意思決定支援ツールが何種類も開発されている。
多くのビジネスパーソンの方々が意思決定論に期待するのが、こうした意思決定支援ツールであるらしい。無理のないことである。行動意思決定論が専門の私ではあるが、大学の授業などで、あえて意思決定支援ツールをひとつ体験してもらうことがある。その直後に「このツールは実際の意思決定に役立つと思うか」と感想を訊くと、役立つと答える人もいれば、役立たないという人もいる。興味深いのはその後である。後日、「授業のあとで一度でも自分であのツールを使った人はいますか」と尋ねると、手を挙げる人はほとんどいない。
理由は簡単である。人間の意思決定は、規範的意思決定論が想定するような手順でおこなわれていないからである。意思決定支援ツールを使っている間は、普段の意思決定ではしていないことを強いられるので、常に違和感がつきまとう。最初の感想で役立つと思うと答えた人は、違和感を論理で押さえつけていたのだろう。しかし押さえる力は長続きしないので、結局は誰も使わないのである。
もちろん、この手法にあまり違和感を覚えない人もいないわけではない。古くは18世紀にベンジャミン・フランクリンが、自分は迷った時はこのような手法を使うと手紙で説明している手法があって、それは現代の意思決定支援ツールと基本的に同じものである。しかし裏を返せば、このような手法は200年以上も前から知られていたのであるから、もしこれが本当に役立つなら、今頃はとっくに世界中に普及していて、人間は迷った時にはさっさとこれを使って意思決定しているはずである。普及していないという事実が、ほとんどの人にとってこれは役立たないことを証明している。
ただし人間は極めてものぐさな生き物である。本当は役に立つのに、面倒だから使わないだけなのかもしれない。人間本来の意思決定とはそぐわなくても、優れた選択肢が選べるならそれでいい。遠くの地点まで速く移動したいという目的がある時に、「人間は本来は走る生き物だから、速く走る走り方を教えよう」というよりは、人工物の自動車や飛行機を使ったほうが速いならそれを使うべきである。意思決定についてもそれと同じことがいえる。
ところが、分析的・論理的に考えることによって、意思決定が効率化するどころか、かえって効率が低下することがしばしばある。ある実験で、一般人に5種類のイチゴジャムの味の優劣を判定させた。結果は、一般人の判定は味覚の専門家の判定とかなり一致していた。一般人の味覚も大したものである。ところが、ある条件を付けて判定させると、一般人の判定は専門家の判定から離れてしまった。その条件は、「理由を付けて考えてください」というものだった。つまり、論理的に考えることを強いたために、かえって意思決定の効率が下がってしまったのである。
脳に障碍(しょうがい)を負った、ある患者のケースは象徴的である。その患者は一般人のような感情を失ってしまっていた。面会を終えた研究者が「次の面会はいつにしましょうか」と尋ねると、患者は手帳を取り出して、「何日にはこういう予定がある」といったことを延々と語り続けた。つまり、論理的に物事を考えることができるのに、「この日がいい」と意思決定することができなかった。感情を失った患者は、意思決定の力も失っていたのである。人間の意思決定は、単なる論理や計算ではなく、感情と切っても切れない関係にあるらしい。
考えてみれば、人間ほど感情が豊富な動物はちょっと見あたらない。感情は人間がまだここまで進化していなかったときからひきずっている遺物であるというよりは、むしろ進化によって新たに獲得してきた大事なものではないだろうか。今では私は、人間が感情を無くす方向に進化することが必然だとは思わなくなった。また感情を無くしたいとも思わない。感情がなければ悩みも苦しみもない代わりに、幸せも感じられなくなるからである。感情がなければ幸せだという見解は「論理的ではない」。
感情と意思決定との関係はまだまだ未知のことだらけである。この文章のタイトルはスター・トレックの劇場映画第3作の副題”The search for Spock”にちなんだものであるが、私のミスター・スポック探しの旅はまだまだ続きそうである。


参考情報

長瀬勝彦(ながせ かつひこ)
首都大学東京 大学院社会科学研究科 経営学専攻(ビジネススクール)教授
慶應MCCプログラム「主観を磨く意思決定」講師

1984年東京大学経済学部卒業。1991年東京大学大学院経済学研究科経営学専攻博士課程単位取得。駒澤大学経営学部専任講師、助教授、教授、東京都立 大学経済学部教授を経て、2005年4月の公立大学法人首都大学東京の設置と同時に現職。東京大学博士(経済学)。専門は意思決定論、組織論。
著書『意思決定のストラテジー』にて組織学会高宮賞、日本経営協会経営科学文献賞受賞。河合塾により大学のベストティーチャーに選ばれるなど、分かりやすく面白い授業には定評がある。

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