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持続可能な農業を目指して Agri-Informaticsの挑戦

2009年10月13日

神成淳司 慶應義塾大学環境情報学部専任講師

はじめに
 我が国の農業に関しては、低い所得水準や、低迷する食糧自給率が取り上げられる事が多い。実際に、農業就業人口はここしばらく右肩下がりであるし、高齢化も進んでいる。現状の農業就業者を世代別に見てみると、2007年以降、75歳以上が最も多数となる、右肩上がりのグラフとなる。最近では、若年層の就農や団塊世代の再就職がメディアを賑わす事もあるが、焼け石に水。それよりも遙かに引退する人数が多いのである。
 一方で、あまり知られていない事であるが、日本の国内農業の生産性は世界トップクラスである。多数の小麦等を輸出する米国と比較すれば、カロリーベースではあるが、およそ9倍程度という非常に高い生産性を誇っている。欧州の農業先進諸国と比較しても概ね2-3倍の生産性を誇っている。しかもこれは、国内平均に基づいた数値であり、篤農家と言われる一部の農家の生産性はさらに高水準を誇っている。篤農家の多くが高齢化している点、高齢年金により生活が支えられる事から規模拡大に消極的である点、狭量な中山間地が多いために狭量な農地が多数を占める点といった様々な課題を抱えるものの、日本の農業は、世界有数の生産技術を持ち、安定的に発展可能な産業として飛躍する可能性を持つのである。
 この可能性に着目した我々の取り組みを紹介する。


Agri-Informatics
 新規就農者の多くが驚く点の一つに、農業が設備産業と揶揄されるほどに、農業設備が高額な点である。実際のところ、多くの農家が厳しい経済状況に陥る要因の一つに、高額な設備投資がある。最近、マスコミ等でも取り上げられる事が多い、様々な先端技術を活用したと言われる植物工場の一棟の値段は、概ね6000万円~12000万円。この初期投資額に対し、栽培作物にも依るが、一棟あたりの年間売上高は、数百万円から高くて1000万円程度である。この売上高は、栽培された作物が完売する事を前提としており、実際の売上高はさらに低迷する可能性がある。さらに、毎年のランニングコストも必要とされ、最新鋭の植物工場ともなれば、電気代等が余計にかかるためランニングコストも高額である。初期投資を回収するのに15年以上かけても難しいという状態なのである。
 さらに問題なのが、生産性である。このような高額な栽培設備を用いれば、冒頭に記述したような、世界有数の高い生産性が得られるわけでは必ずしも無いのである。高い生産性を誇る篤農家の多くは、昔ながらの一般的な栽培設備(いわゆるビニールハウスを想像すればよいだろう)を用いている。長年の経験と勘を用いることで、一般的な栽培施設を用いて、高額な植物工場を上回る生産性を確保している。実際のところ、このような篤農家の方々の多くは、儲かる農業を実現している。
 ここ数年、異業種からの農業参入が相次いでいるが、このような状況を知らずに、高額な植物工場を導入する企業も多い。過度な設備投資を賄うだけの売り上げが確保できず困っているところも多いだろう。日本の農業の高い生産性は、高額な設備投資に支えられているわけではなく、篤農家の長年の経験に支えられてきたのである。
 植物工場と篤農家の方向性の違いは、子育てに例えて考えると判りやすい。
 植物工場を用いた取り組みとは、最新の設備に囲まれた最新鋭の住宅で子育てをするようなものだ。子供の様子を常に見守り、子供の体調に最適となるように、室温や照明の状態といった衣食住の全てに渡り管理運営を行う。親には子育ての知見など必要ない。子育てマニュアルを読んで、その通りに施設を運営すれば子供は順調に育つというわけだ。実際に、植物工場は、断熱材や人口太陽灯等を用いる事で、自然環境の影響に左右されない農業を実現しようとする。
 一方で、篤農家の取り組みとは、昔ながらの子育てだ。子育て経験が豊富な方が、子供の様子を見守って育てていく。子供の体調変化に気づくのも経験に基づいた判断によってなされる。篤農家の栽培手法とはまさにこのような、経験に基づいたものだ。最新鋭の植物工場と比較して自然環境の影響は大きい。寒暖の差も日照不足も、作物の生育に大きな影響を及ぼす。ただ、そのような状況の中で、自分自身が最適と考える栽培手法を適用していくのである。
 このような方向性の違いが、結果として設備投資額を大きく変えてしまうのである。ただし、初めて子育てをする夫婦では、誰の手助けも受けずに子育て経験豊富な方々と同じような子育てが困難なように、新規就農者が何の手助けも受けずに篤農家と同じ成果を得る事は難しい。やはり、何らかの手助けが必要なのである。
 この手助けに着目したのが、我々の研究室の農業プロジェクト「Agri-Informatics」である。高額な栽培設備に頼るのではなく、篤農家の知恵に頼る農業を情報技術を用いて実現しようという取り組みである。情報技術活用による設備投資抑制効果も見込まれる。具体的には、国内の多数の篤農家と連携し、情報技術を活用する事で、篤農家の暗黙知解明を進めている。具体的には、「作物や環境がどのような状態の際には、どのような農作業を実施するのか」という、農作業時の意志決定の解明である。経験30年の篤農家は、一毛作の作物を30回栽培した経験がある。同じ経験年数の農家が100人いれば、栽培経験は単純計算で3000回になる。この3000回の栽培経験を比較分析していく事で、「どのような生育が低リスク高収量へとつながるのか」という問いに対する回答が示されてくる。Agri-Informaticsプロジェクトの目標は、この回答の普及であり、普及による農業生産現場の低リスク高収益性の確立である。
 暗黙知解明のため、農地・作物の状態変化を、独自開発した農業用フィールドセンサを用いて24時間実施している。この様子は、「特集 ニッポンの農力(日本経済新聞10月8日号朝刊一面)」にも紹介された。栽培環境の変化と、その変化に合わせて各農家が実施した農作業により変化する作物自身の状態は、数値データとしてサーバ上に蓄積され解析が進められる。同時に、これら数値データの変化や解析結果は、農家自身へと通達され、農家の意志決定を支援していく。篤農家の経験をさらに精緻化していく事も狙いだ。また、失敗を繰り返さないための取り組みも進めている。篤農家にとっても、自然環境の変化は予測不可能で、しばしば失敗が生じる。このような際に課題となるのが、失敗した原因がわからないという点だ。何故失敗したのかが判らなければ再び失敗する可能性がある。計測された数値データは、この原因解明の糸口となる可能性を持つのである。
小売業との連携
 どれほど素晴らしい作物を栽培収穫しても、売れなければ商売としては成功しない。また、その作物の価値が、消費者に適切に伝わらなければ、価値に相応しい価格で売れる事はない。単に栽培現場だけに注力されるだけでは、農業分野の活性化は難しい。
 このような問題意識から、Agri-Informaticsプロジェクトでは、流通小売分野と連携した取り組みも進めている。その一つが、高付加価値生鮮PB(プライベートブランド)作りである。作物がどれほど「安全」に栽培されたとしても、その価値が消費者に適切に伝達されなければ、消費者は「安心」しない。「安全」と「安心」とを、ITを用いてつなぐ取り組みである。この取り組みにも、上述の農業用フィールドセンサが活用される。昨年度は、関西地区の生鮮小売60店舗において、高付加価値生鮮PB野菜・果実として、京水菜、イチゴを販売した。市場平均価格と比較して数割高額な価格で販売したこれら商品は、安定的な売れ行きを示し、消費者の安全安心に対するニーズが、価格へと転化する可能性を示唆し、今後の取り組み拡大が期待される状況である。
終わりに
 農学部が存在しない慶應義塾における農業プロジェクト「Agri-Informatics」は、塾内の様々な専門分野の方々と連携した、従来の農業研究の枠にとらわれない、新たな可能性を求めたものである。実際のところ、プロジェクトは未だスタート段階であり、課題も山積しているが、日々の積み重ねの中から徐々に成果が供出し始めている。更なる広がりを持たせるために、多くの企業や研究者との連携も進めている。
 国連予想によれば、今後30年ほどで世界人口は1.5倍程度に急増し、全世界的な食糧不足が懸念されている。自国が飢える際に食料を輸出する国は存在しない。国内農業の活性化は我々が取り組むべき重要な課題である。我が国農業が持つ、世界最高レベルの生産性を有効に活かす事で、この課題への対応がなされると考えている。また、この生産性をなしえる技術の海外適用も将来的な課題である。
 たかが食、されど食、である。食べなければ人間は生きられないし、美味しいものを食べれば幸せを感じる。一歩一歩着実に、このプロジェクトを進めていきたい。

神成淳司(しんじょう あつし)
慶應義塾大学環境情報学部専任講師
産業構造審議会 情報経済分科会委員
京都大学非常勤講師
IAMAS非常勤講師
個人ホームページ:神成淳司 – SHINJO Atsushi on the web
神成研究室公式Web:神成淳司 研究会 – 情報社会のデザイン
1996年 慶應義塾大学政策メディア研究科修士課程修了
2003年 岐阜大学大学院工学研究科後期博士課程修了
学位:博士(工学)
専門:農業情報科学、コンピュータサイエンス(産業応用)
主な前職:
1996-2002 IAMAS(国際情報科学芸術アカデミー)助手
2000-2006 (財)ソフトピアジャパン 主任研究員
2000-2005 岐阜県 情報技術顧問
2002-2006 IAMAS(国際情報科学芸術アカデミー)講師
2002-2006 (独)防災科学研究所 共同研究員
主要著書等:「計算不可能性を設計する」(神成淳司、宮台真司、ウェイツ出版、2007年)
「複数のマテリアル、複数のアーキテクト」(10+1、INAX出版、2007年
「小規模農家向け安定的高収益農業の検討」(情報社会学会論文誌、2008)
「社会は計算可能か」(現代思想11月号、青土社、2008年)

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