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今月の1冊

2003年10月14日

『アイデアのつくり方』

著者:ジェームズ・ウェッブ・ヤング 訳:今井茂雄 解説:竹内均
出版社:TBSブリタニカ; &nbspISBN:4484881047 ; (1988/04)
本体価格:777円; ページ数:102p
http://item.rakuten.co.jp/book/301333/


ピータ・シェファーの戯曲『アマデウス』では、18世紀の「凡庸な」音楽家アントニオ・サリエリが、「神によって選ばれた偉大な作曲家」であるモーツァルトの才能を妬み、虐殺してしまう様が描かれている。この戯曲によれば、サリエリは、神への信仰と音楽への情熱を心の支えに、童貞と品行方正を貫き、艱難辛苦を経て宮廷作曲家の地位まで上り詰めた典型的な「努力の人」であった。にもかかわらず、神は無情にも、後世に記憶される名曲をモノにできる「才能の人」として、粗野で飲ん平で助平な遊び人のモーツァルトを選んだ。努力とは何なのか、「アイデア」とは何なのか、つくづく考えさせられる話である。もしサリエリがこの本を読んだら、男泣きして喜んだことだろう。ところで、この戯曲が現代でも好まれるのは、今流行りの言い方をすれば、そこに「勝ち組」と「負け組」の明暗の縮図があり、勝敗を決する「アイデア」の恩恵にあやかれるかどうかは、神の残酷な気まぐれ以外にはないのだろうか、というテーマに普遍性があるからであろう。
本著は、著者の広告業界における職業経験というバックグラウンドによって培われた「アイデアのつくり方」を、平明な言葉で簡潔にまとめ上げたものである。また、論の展開が科学的であり、随所で著名な哲学的・心理学的知見が照応されており、非科学的な能力開発本や宗教的な自己啓発本とは一線を画している。ちなみに、著者のジェームス・W・ヤングはアメリカ広告界の権威であり、本著はアメリカの広告クリエータの”バイブル”ともいわれる隠れたベストセラーである。また、原著は1975年発行の『A Technique for Producing Ideas』であるが、いまだに色あせないのは、本質を捉えた内容だからであろう。
この本の衝撃は、「アイデア」という名の天上の果実は、選ばれしエリートの恩寵予定説的な独占物ではなく、実は一介の労働者でも手が届く高さにあるんだよ、ということを語っている点にある。それは、アイデアの”つくり方”という言葉に端的に現れている。通常私たちは、アイデアは”ひらめく”や”浮かぶ” といい、特別な能力による産物だと思っているが、そうではなくそこには原理とプロセスがあり、誰もが”つくる”ことができるのだという。
著者はそのことを、イタリアの社会学者パレートの学説を引き合いに出して、こう立証する。人間の「アイデア」の形成は、「二つの原理」と「五つの段階」に基づいている。
まず、その「二つの原理」とは

  1. アイデアは既存の要素の新しい組み合わせである。
  2. 新しい組み合わせを作り出す才能は事物の関連性をみつけだす才能によって高められる。

つまり、「アイデア」は、ゼロから産まれるのではなく、既存のものの組み合わせを変えることから生まれるのだから、既存のものの中に新たな関連性をみつけだせれば、「アイデア」は必ず誰でも得ることができるはずである、と著者は述べている。
次に、その具体的なプロセスである「五つの段階」を著者は以下のように示している。

  1. 情報の収集
  2. 情報の咀嚼
  3. 情報の孵化
  4. アイデア誕生の瞬間
  5. アイデアの検証

「アイデア」の完成に至るまでの人間の精神活動をこのように段階分けした上で、その内の「情報の収集」、「情報の咀嚼」および「アイデアの検証」の三つの段階は、意識的な精神活動である、と著者は例証している。
つまり、この三つの段階は、コツさえ分かれば、誰にでもできる作業である。従って「アイデア」の完成は、決して一部の天才の離れ業ではなく、「投機的」で「継続的」な努力によって、何人にも門戸の開かれていることである、と著者は結論しているのである。
ご時世が世知辛くなったと囁かれるようになって久しい。一日の仕事が終わり、家路に向かう途中で見かけられるのは、疲労困憊の極みといった風情の親爺の生気のない虚ろな眼と、安酒に泥酔して上司の悪口を吐き出すに忙しい姐御のふらついた足取りばかりである。「アイデア」も「成功」も、一体どこの世界の話だろう。会社のためなら無理に無理を重ねて努力し従順に尽くして来たのに、「アイデア」の「ア」の字も訪れる気配がないではないか。報われない剥き出しの心労を曝して憚らない親爺や姐御からの、蕎麦屋の出前はまだなのかと叫ぶ怒号が聞こえてきそうである。今、産業界のサリエリの呪詛の念が、不況の現場を満たしている。その元凶は、『アマデウス』でサリエリを捕らえて苦しめたもの、つまり、「継続的」な努力という重税を支払い続ければ、「アイデア」の還付を神は約束してくれるのかどうか、にあるだろう。では、還付を得られなかった場合、それは単に払った税の多寡の問題なのだろうか。それとも、本質的に考え直さなければならない何かがあるのだろうか。
童話『星の王子様』で有名な作家のサン・テグジュペリは、かつて著書の中でこう述べた。人は誰でもモーツァルトになる可能性を持って生まれてくる。だが、その内なる「眠れるモーツァルト」は、無智と無抵抗という名の怠惰から「虐殺」の危機に瀕している。また、こうも述べている。価値の創造は美しい星の輝きである。そして星を輝かせるために、人は昼夜兼行で労働に精を出すが、立ち止まって考えることをしない。ちょっとした工夫で考える時間が生まれるのに、人間という摩訶不思議な生き物はそれを拒む。
どうしても思い込んでしまうこと、それは、「アイデア」なんぞという天啓じみた代物を賜ることは、凡人の及ばぬ閃きの奇跡であり、一部の「神から才能を授けられた人」だけに許される、風雅な選民の特権的芸事である、ということである。また、私たちはついつい「俺は天才じゃないから」と言い訳して、「アイデア」を得る努力を怠ったたり、せっかく獲得した「アイデア」を「どうせダメだろう...」と独断し、忘却しようとしがちである。しかし実際は、「アイデア」とは、解説の竹内均氏がエジソンの名言を引用している通り、「1%の才能と99%の努力」の賜物である。
もう一つ思い込んでしまうこと、それは、「努力」教という名の教義の信者になれば、「アイデア」も「勝ち組」も、さらには幸せまでもが約束されるんだ、ということである。実際、「努力」という言葉は実に響きがいい。疑問を感じても、それをすやすやと眠らせてしまう効果がある。「努力」は、あるときは失敗の免罪符であり、あるときは合理思考を眠らせる子守唄である。だが実際は、立ってばかりいないで、座って「知恵」を働かせることもしないと、サン・テグジュペリが指摘するように、眠れるモーツァルトは虐殺され、疲弊と焦燥と徒労感だけが残る。
もしかしたら不況とは残酷な神のお戯れかもしれない。だが、一介の労働者である親爺や姐御は、神の操りから自立して、「努力」と「知恵」で武装すれば、「アイデア」を自身の手で創造することも、決して夢物語ではない。本著は、そのことを「アイデア」の原理と方法論の考察から証明している。その意味では、本著は、単に広告新案の「アイデア」を得るための「コツ」や「段取り」を披瀝するだけの「ネタ本」ではない。ここで提出されている原理と方法論は、人は「努力」と「知恵」で武装することにより、自身の仕事や人生について考え、神からの恩寵品ではない武器としての「アイデア」を創造できる可能性を示唆する。
この原理と方法論は、万能薬ではないかもしれない。だが、私は本著により救済されるモーツァルトの産声を聞いてみたいと願う者の一人である。
(大沢 守)

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