今月の1冊
2015年09月08日
『断片的なものの社会学』
仕事帰りの電車の中、いつものようにtwitterのタイムラインを眺めていると、ある本を取り上げるツイートが目に留まった。本のタイトルは『断片的なものの社会学』。私は、この巡り合わせにふしぎな魅力を感じた。そもそも、twitter自体が断片的なつぶやきによって成り立つものであるし、さらに「断片的」とは、あらかじめ全体としての像が立ち上がらない状態を指すからである。
まるで波の上で漂う瓶を拾うかのように、私はさっそく本を購入した。
社会学者の視座を知る
本書はタイトルに「社会学」とあるが、専門用語が連なる難解な学術書ではない。誰もが読み下せる、平易な言葉で綴られたエッセイである。
著者は、社会学者の岸政彦氏。生活史(ライフヒストリー)というインタビュー法を用いる研究者だ。主に沖縄を研究対象地として戦後沖縄史を研究するほか、大阪を中心に被差別部落での聞き取りも行うなど、いわゆる「マイノリティ」と呼ばれる人びとに近いところで活動している。とは言え、本書ではマイノリティばかりではなく、ごくふつうの人びとも登場する。一見、日常に埋もれてしまいそうな無意味で断片的な物語を拾い上げ、それによって世界ができあがっていること、そしてそうした世界における人とのつながりについて、独特な静けさをもって語られる。
氏は冒頭で、調査者としての自分と調査対象の人びととの出会いやつながりもまた、断片的だとふりかえる。研究のため見ず知らずの人に一時間か二時間のインタビューをし、それ以来二度と会わないこともあるからだ。「こうした断片的な出会いで語られてきた断片的な人生の記録を、それがそのままその人の人生だと、あるいは、それがそのままその人が属する集団の運命だと、一般化し全体化することは、ひとつの暴力である」。
この「暴力」という表現は、本書の随所で見られる。社会学的な言論ではその意図は通じるのかもしれないが、日常生活の中で見かけると少しドキッとする言葉だ。物事に向き合い、話を聴き、分析や解釈を試みる時、そこに「暴力」が生まれることがあるという。ここで言う「暴力」とは、ただ力ずくで危害を加える行為とは異なり、態度やふるまい、また社会的立場といった直接的な痛みを伴わず、ともすれば無意識のうちにはたらいてしまうようなものである。生身の人間やその生活を対象に研究している以上、これらの「暴力」と無縁でいることはできない。そんな社会学が置かれている状況に対し、常に自覚的でいながら調査に取り組むのが社会学者の課題といえる。
本書で語られる印象的なエピソードの一つに、授業の一環で大阪の釜ヶ崎に学生を連れていったとときのことがある。この視察は、マジョリティの学生たちにもマイノリティや少数者、あるいは当事者などとされる人びとが抱える問題について知ってほしいという氏の考えから行われた。ところが、その途中である女子学生が路上生活者にヤジを飛ばされ、「怖い」というイメージを持ってしまったという。他者を理解するうえで乗り越えるはずの「壁」が、かえって強固なものになるところだった。
「壁を越えることが、いろいろな意味で暴力になりうることを、私ももっと真剣に考えるべきだった。しかしまた、壁を越えなければ、女子学生もふくめて、私たちは、私たちを守る壁の外側で暮らす人びとと、永遠に出会わないまま生きていくことになってしまう。ほんとうに、いまだにどうしていいかわからない。」
このように、社会学者としてあるいは一人の人間として、人びとの生活を理解しようと試みるとき、苦悩や葛藤が生じることについて惜しげもなく語られる。そこには、いくばくかの「告白」も含まれる。そうした氏の実直さに、ときよりはっとさせられる。なぜなら、私たち誰もが「暴力」と無縁ではないからだ。
本書は、社会学者の視座を頼りに社会を見つめ直すことで、他者を理解するというごく日常的な行為を省察するきっかけを与えてくれる。
日常という断片に向き合う
本書では、たくさんの断片的な物語が紹介されている。これらの「物語」は、小説や映画の世界のように涙や笑いを誘う名場面や、お決まりのオチがあるような話ではない。著者が沖縄で行ったインタビューの途中で、調査対象者の飼い犬が死んだ話。全裸の男性とすれ違った話、風俗嬢の語り、隣のアパートに住むおばあちゃんとのやりとり、路上で演歌を歌う80代の男性の語り、異性装者のブログ、など。ごくふつうの、どこかで生きる、誰かの人生の破片である。
このような「断片的なもの」に対して、氏は特別な想いを寄せる。
「統計データを使ったり歴史的資料を漁ったり、社会学の理論的な枠組みから分析をおこなったりと、そういうことが私の仕事なのだが、本当に好きなものは、分析できないもの、ただそこにあるもの、日晒しになって忘れさられているものである」。分析も一般化もできないような「小さなものたち」。それらを「なにも解釈せず、ただそのものを知りたい」のだと語る。「数」や「音」や「白さ」についても、あるいは愛犬の死についても。
一方で氏は言う。「物語は、『絶対に外せない眼鏡』のようなもので、私たちはそうした物語から自由になり、自己や世界とそのままの姿で向き合うことはできない」と。ただ、「そのままを知る」ことができなくても「知ろうとする」ことはできるのではないだろうか。その場合には、自分の中に育った先入観や固定概念を一度疑うことが不可欠となる。それはとても難しい。社会学は、自らの生活を省みて「当たり前を問い直す」学問ともいうが、著者の願いそして取り組みは社会学者としての姿勢そのものだ。そんな姿に、私は憧れる。
本書の末尾は、著者の解釈や補足説明抜きに、畳み掛けるようにして断片的な物語の並列に終わる。それはそのまま、私たちの日常に溶け込み、読み手自身が物語を語り始めることを促すようだ。
では、私たちが断片的な物語を語ることによって、何を得ることができるのだろうか。
私はこう思う。断片的なものへの関心は、日常へのやさしいまなざしにつながるのではないか、と。世界が断片的なものの集まりであるとすれば、一つひとつの断片的なものへの関心は、私たちの暮らしについて丁寧に考えることにもなるはずだ。自らの生活をふりかえるとき、そこには数えきれないほどの無意味な事象に満ちている。ふだんは気にも留めないような「小さなもの」たち。しかし、それらは私たちのかけがえのない人生の一部にほかならない。
私たち一人ひとりが日常という断片に向き合い、そのそこはかとなさを愛おしく思うとき、生活はもっと穏やかに、そして豊かになるだろう。その一歩が、「物語る」という営みなのだ。
(尾内志帆)
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