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『仕事の裏切り ―なぜ、私たちは働くのか』

2004年06月08日

著者:ジョアン・B.キウーラ 訳者:中嶋愛 監修:金井壽宏
出版社:翔泳社; &nbspISBN:479810440X ; (2003/11)
本体価格:2,800円 (税込:2,940円) ; ページ数:445p
http://item.rakuten.co.jp/book/1618739/


この本の原題は『The Working Life:The Promise and Betrayal of Modern Work』である。著者の主張は、「仕事」についてシニカルな姿勢に貫かれている。いわく「仕事が、私たちにもたらしてくれるものを過大評価してはいないか」「仕事に精神的な価値があるとする倫理観や仕事を通じて得られる充足感を過度に求めてはいないか」・・・
多忙なビジネスパースンが夜間に経営やビジネスを学ぶ場を提供することを「仕事」とし、仕事人間に強いシンパシーを感じる私にはちょっと気になるメッセージだ。
かつて「経営者や人事部が、社員に“仕事を通じた自己実現”を声高に提唱するのは、それが最も経済的な動機づけの方法だからだ...」と論じた著名な経営学者に、「あんた、そういう言い方はないでしょ!」と腹がたった記憶があるが、読みながら同じ憤りと違和感を抱いたのは事実だ。
しかし一方で、これほど「仕事」についてまじめに論じている本もない。また、とにかくスケールの大きな「仕事」の本だ。
著者のジョアン・キウーラは、哲学者であり、ビジネススクールでビジネス倫理を教えている。MBAで教鞭をとる学者が、MBA的仕事観を真っ向から批判する本を著し、それがビジネス書として高い評価を獲得するという事実に米国の幅広さを感じてしまう。
キウーラがこの本に込めたメッセージは「仕事の意味」を考えることである。それも、いまの会社や職場といった仕事環境や自分のキャリアやライフプランなどといった狭い世界で考えるのではなく、人類が何千年もかけて形成してきた仕事観の背景にある歴史的、文化的前提を検証することによって、われわれが、仕事に対してどのような考え方、期待を持っているのか、またどのように仕事と人生を選択してきたのかを、深く問いかけたい、というものだ。
本書は3部から構成されている。1部は古今の知識人が残した言葉や歴史の振り返りから「仕事の意味」が多面的に語られる。2部はこの100年の経営管理の発展と変遷を、徹底して冷めた視線で分析している。3部は哲学者らしく、人生や生活を深く掘り下げている。それぞれで一冊の本にした方がよいのではないかと思う程、複眼的に分析を試みているので、いろいろな見方、読み方ができる。私は1部と2部に強いインパクトを受けた。
内容の一部を紹介しながら感想を付記しよう。
古代ギリシャでは、「仕事は神の呪いであった」という。農業や工作、家事など日々の暮らしを支える「仕事」への従事は、神に呪われた存在=奴隷にあてがわれた宿命だった。
だからこそ、ソクラテスやプラトンは哲学を論じ、アルキメデスやピタゴラスは数々の原理や定理を発見できた。「仕事」に追われることなく、抽象概念や机上の空論に時間とエネルギーを費やすことこそ市民の理想的な生き方だった。宗教改革以前のキリスト教社会でも、働くことは生きるための最低限の行為であり、神を信じ、祈る時間こそが尊いものとされた。
時を下った現代、アテネオリンピックのメイン競技場は、工事の完成が危ぶまれていると聞く。にもかかわらず、ギリシャ人はいたってのん気な様子だ。二桁の失業率が続き、政治家や警察にまで汚職が蔓延するイタリア社会でも、国を富ますために、シェスタの習慣を廃してもっと働こうという運動はついぞ起こらない。これらも、数千年の時を経て、多くの人々の意識深層に埋め込まれた仕事観だと思えば、合点がいく。
ルターやカルヴィンの宗教改革は、伝統的仕事観の大きな変容をもたらした。伝統的ゆえに硬直化した教会組織の枠から出て、神と直接つながろうしたこの運動は、「働くことは神への奉仕であり、道徳的義務である」とする価値観を広めていった。それはやがて新大陸に浸透し、ベンジャミン・フランクリンの「時は金なり」という格言に代表される、規律正しい生活と倹約・勤勉を心がけ、合理性を第一義とする理想的米国人像と仕事観に結実し、いまに繋がる米国の経済発展と進歩史観を形成した。
イラク戦争にみられる、英米アングロ・サクソン国家とカトリック系の大陸欧州国家の対立は、「科学の進歩と経済発展そして自由社会こそが人類の進歩である」とする考え方と、より多義的な価値観を認めようとする人々との世界観や進歩観の相違という解釈も成り立つ。
では、日本人の仕事観はどうなのか。勤勉性の価値観は、いつ頃生まれたのか、そしてそれは、自然発生的に生まれた土着的な文化なのか、それとも、二宮金次郎像に代表される刷り込み教育の成果なのか、「科学の進歩と経済発展」を成し遂げたいまも、「地上の星」を聞くと思わず熱くなる遺伝子的スピリットはどこに基因するのか。
経営学100年の歴史的変遷は、常に自己の利益を最大化しようと行動する「利己的な存在」としての従業員を、最も経済的に働かせようとする経営者とその先棒を担いだ経営学者の知恵の歴史であったという。テーラーの科学的管理法や人間関係論からはじまり、原題の成果主義やキャリアへの取り組みも、見方を変えればそう言えるのかもしれない。
この100年われわれは、数多くの経営学的知見を獲得しながら、仕事の現場は依然として悲哀と陰鬱に満ちている。人が何を欲するのかを決め、欲するものを作り出し、その欲求を満たすために何をすべきかを決める。著者の言葉によれば「存在しないニーズを満たす」ための終わりなき行為の連鎖が続いている。
しかし、一方で、われわれは仕事への熱い期待を失ってはいない。経営者は、猿や奴隷を働かせるごとく、動機づけをするのではない、自分自身もまた働く人間のひとりとして、真摯に仕事に立ち向かっている。働く人々も、仕事を通じて得られる喜びや可能性を強く信じている。仕事の先に見えるものは、以前として輝き続けているのだ。だからきょうも働く。そして明日も。
監修者の金井壽宏氏(神戸大大学院教授)は、この本に散りばめられた珠玉の言葉のうち、最も印象に残るものとして「Work works for us」という言葉をあげている。
われわれは、良い意味でも悪い意味でも仕事の働きかけを受けている。人間が仕事をするのと同時に、仕事が人間を形成している。同じハードワークであっても、ある人は、仕事に束縛され逃れられなくなったと嘆き、別の人は、仕事が自分を高め、何事にも代替し難い至高の体験をもたらしてくれたと感謝する。「works」という動詞の意味を定義するのは、他者ではなく自分自身なのだ。
この本には結論がない。ただし、「仕事の意味」を深く考える多くの題材を提供してくれる。この本の価値を決めるのもまた読者自身なのだろう。
最後の終章の一説を紹介して、この論を締めくくろう。

「組織は意味のある仕事を提供する道徳的義務はない。しかし従業員が職場で仕事の意味を追求し、職場外で意味のある人生を追求できるような、活力、自律性、意欲、収入を実現できるような仕事と報酬を提供する道徳的義務はある」

けだし名言である。
<追記>
筆者は、偶然この本と前後して、下記の本を手にとる機会がありました。仕事観だけでなく、進歩、自由、発展などわれわれが暗黙のうちに有している社会的価値観の前提のある歴史と文化の背景を、じっくり考えたい人にはおすすめです。
『人間は進歩してきたのか-「西欧近代」再考-』佐伯啓思 PHP新書
http://item.rakuten.co.jp/book/1604620/
(城取 一成)

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