KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

今月の1冊

2022年10月11日

伊吹 有喜『犬がいた季節』

犬がいた季節
著:伊吹 有喜; 出版社:双葉社; 発売年月:2020年10月; 本体価格:1,600円

青春ってすごく密

今年、3年振りに入場制限なしでの開催となった夏の甲子園で、初優勝を果たした仙台育英高校野球部、須江監督の言葉です。

このコロナ禍で、制限のある高校生活を送らざるを得なかった日々を労い、苦しい中でも諦めないで努力してきた全国の高校生をたたえる優勝監督インタビューに、多くの人が胸を打たれました。

また、この「青春ってすごく密」という言葉に、思わず、ご自分の高校生活を振り返り、確かにそうだったな、と、具体的なエピソードを思い浮かべた方、一生懸命に駆け抜けた、かけがえのないあの時間に郷愁をそそられた方もいらっしゃったのではないでしょうか。

私も、今やほとんど思い出すこともなくなっていた高校時代の自分が、なんだかとても愛おしく感じました。あまり団体行動が好きではなかった私ですら、文化祭実行委員で先生、先輩、クラス外の同級生と深めた絆や経験は、大きな糧になっていますし、好きなことを仕事にするのを目指すか否かの大きな選択を、生まれて初めて迫られた時期でもありました。また、私のクラスは、席替えの際に、視力の悪い人から前の席を選べたので、眼鏡もかけていない私が毎回、「最近視力が落ちてきて」と先生に嘘をついて、好きな男子の隣の席をずっと死守していたのも、いい思い出です。

そして、このきっかけがあって、今回『犬がいた季節』という一冊を手に取りました。

実はこの書籍は、1年以上自室の本棚で眠っていたものでした。犬好きの私は、タイトルに惹かれ、本屋大賞の3位にランクインしたばかりと記載された帯も目にして、迷わず買ったものの、今さら高校生の、いわば青春ストーリーに共感できるかしらと、結局1ページも読むことなく、そのまま本棚へしまい込んでいたものです。

甲子園の感動で、高校生の気持ちに少し寄り添えた今が読み時だろうと、ようやくその表紙を開いてみたのでした。

犬が見守ってきたそれぞれに咲き誇るアオハル

この本は、とある高校で飼われることになった捨て犬のコーシローと、そこに通う生徒たちの物語です。

コーシローは最初に迷い込んだ縁で、美術部の部室で暮らすことになり、生徒会と美術部員などの有志で運営する「コーシローの世話をする会」が、校長先生から託された日誌をつけながら、交代で、エサをあげたり、ブラッシングなどの手入れや散歩などをしてくれています。

たくさんの生徒に愛される喜びと、3年経てば必ず別れがくる切なさを抱えながら年月を重ねていくコーシロー。もちろん、「コーシローの世話をする会」も毎年メンバーが入れ替わります。物語は、卒業年度ごと、コーシローに深くかかわっている生徒のエピソードを中心に、各章完結の連作で紡がれていきます。

コーシローが見送った卒業生は昭和63年度から、平成11年度まで。当時の流行した歌や商品、時事ネタも上手く織り交ぜているので、読み進めていくと、懐かしさを感じ、まるで自分もその当時にタイムスリップしたかのように物語に引き込まれていくのも、この本の魅力の1つです。

例えば第一章は、好きなBOØWYが解散してしまったと話す、塩見優花が主人公。迷い込んだコーシローを高校で飼えるよう校長を説得した一人です。

彼女は容姿も人柄もかわいらしくて、おそらくクラスで彼女のことを嫌いな人はいないだろう思われる高校三年生の美術部部員。それなりに勉強もできて、高望みをしなければ大学受験に失敗することはなく、何も悩むことがないように見える彼女も、家族のことや将来のことでモヤモヤしています。

同居している祖父母は、男子の孫ということで兄だけをあからさまに甘やかしたり、家業も家事もしっかり務めているにもかかわらず嫁、つまり優花の母親に冷たくあたったりするため、優花は複雑な想いを抱え、そんな家族と過ごす中で、自分は何者にもなれないのではと悩みます。そして、自分とは違って、本気で絵の世界で生きたいという夢と強い意志を持つ同級生に憧れ、淡い恋心を抱くようになります。優花は家族とどのように向き合っていくのか、将来の道をどのように選んでいくのか、同級生への想いは打ち明けられるのか…。

優花のような淡い恋の話や進路の悩みだけではなく、この年代、この時期ならではの友人とはどんな存在か、自分にとっての本当の友人は誰なのかを考えさせられる経験や、多感な時期での悲しい出来事、親しい人との別れ、そして、最近では「親ガチャ」と言われる社会の構造的課題、章ごとに、高校生たちがそれぞれに精一杯対峙していく姿は、思わず、当時の自分やクラスメイト達を重ねずにはいられません。

もう子供ではないけれど、決して大人でもない悩ましい時期。

優花をはじめ、皆、家族や友達にも言えないことを、コーシローには打ち明けます。

当然ながらコーシローは何も言葉を返しません。ただこちらを見つめるだけです。

でも、きっと、言葉なんてなくていいのです。ただそこにいてくれるだけで、話を聞いてくれるだけで救われる。生徒たちにとって、コーシローはそんな、かけがえのない存在なのだと思います。

また、コーシロー自身も、大事な人達に何かしてあげたいと思うけれども、尻尾を振って、しずかに話を聞いてあげることしかできません。各章はいつも卒業式で締めくくられるのですが、コーシローは、毎年、そのもどかしさを感じながら、自力で前を向いて未来に進もうとする、少したくましくなった背中を見送り続けるのです。

大人の階段を上り始めたころの彼らが、初めて感じる理不尽さ、気持ちを飲み込まざるを得ない辛さに戸惑う様子に、当時の自分を思い出し胸が締め付けられてしまったり、「いやいや、そんなことで傷ついてたら、社会で生き抜けない。」、「これからもっと大変なこといっぱいあるよ。強くならなきゃ。」と、心配になってしまう、いわば親心のような気分になったり、ふとあの頃に戻れない現実に引き戻されて、大きなため息をついてしまったりと、読者も様々な感情が渦巻きます。涙なしでは読めませんが、同時に心が温かくなる1冊です。

「自分の学校にコーシローがいたら、何を語りかけていただろうか。」
そんなことを思いながら、皆さんも、この秋の夜長に、高校時代へ戻ってみませんか。

(藤野あゆみ)

犬がいた季節
著:伊吹 有喜; 出版社:双葉社; 発売年月:2020年10月; 本体価格:1,600円
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