KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

今月の1冊

2023年11月14日

佐宗 邦威 著『じぶん時間を生きる TRANSITION』

じぶん時間を生きる TRANSITION
著:佐宗邦威; 出版社:あさま社; 発行年月:2023年7月; 本体価格:1,800円

今年の夏は石川、富山を旅した。

石川は3泊、富山は4泊滞在し、観光地をめぐるというよりも、綺麗な景色をのんびりと眺めたり、キッチン付きの宿泊施設で地元のスーパーの食材を料理をしたり、お気に入りのカフェを見つけ通ったり、地元の市民体育館のプールで泳いだり・・・と、場所を変えて、日常生活をいつもより丁寧にゆったりと過ごす日々が心地よかった。

コロナ禍を境に、私の旅のスタイルは変わったかもしれない。

コロナ前は、ちょっと長い休みとなれば海外に出かけていた。休み前に仕事をなんとか片づけるための連日の過労と長時間の飛行機移動がたたり、目的地に着くやいなや体調が悪くなるのは恒例。前半の2-3日は這う這うの体で予定していた観光地を周り、ようやく身体が現地に慣れてきた頃には、もう帰らなくちゃ・・・という流れがいつもの事だった。会社員として働いている限り、限られた休暇期間の旅はこれが当然という“思い込み”も頭のどこかにあったと思う。

コロナ禍となり、国外はさることながら、国内にあっても移動がままならず、人が多くいる場は避けるようになってからの旅は滞在型になった。その結果、コロナが落ち着いた今も、どこに行くかよりも、そこで何をするか(むしろ何をしないか)の方が大切になってきている。

本書著者は超人気の戦略デザインコンサルタントである佐宗邦威さん。外資系企業のブランドマネージャー等を務めた後、現在は戦略デザインファームを立上げ、名だたる企業、組織のイノベーション支援をされている。

佐宗さんは「時間は効率的に使うべき」と信じて生きてきた。

稼働した時間に応じてクライアントに請求が発生するコンサルティングという仕事柄、自分の時間は貴重なリソースであり、限られた時間で最大限のアウトプットを出すために仕事の「生産性」を上げることを必須としていた。

けれども、生産性を上げれば上げるほど、仕事が増え続けるという“矛盾”が生じてくる。さまざまなデジタルツールを駆使してスキマ時間でもタスクを次々と処理していくほど常にスマホをチェックするようになり、終わりのないチャットメッセージの返信に追い立てられる・・・。

本来、生産性が上がれば短時間で成果が出て、時間が生まれるはずなのに、時間を効率的に使おうとすればするほど、結果的に仕事は増え「時間がなくなっていく」という矛盾に気づいたのだ。

僕が生きているメカニズムのどこかに時間泥棒がいるんじゃないか。

コロナ禍は、強制的に私たちの生活に変化をもたらした。

2020年緊急事態宣言を機に、自宅から限られた半径のなかで生活をする日々がしばらく続いた。ほとんどの時間を家族のみと対面し過ごすこととなり、これまで毎日往復することが当たり前となっていた通勤も、さまざまな会合もなくなった。こんな生活になることが当初は信じられなかったが、過ごしていけば、それはそれで心地よいことも多く、「あれ、何のためにあんなに何かに追われ過ごしていたんだろう?」と気づいた人もたくさんいたはずだ。

物質的な豊かさを追求し、常に自分と周囲とを比較して「持つもの/持たざるもの」とを区別する生活は、いつしか生産性を高め多くのタスクをこなすことを目指す。それは、まさに“時間泥棒”に追われる状態へとたどり着く。佐宗さんはこの状態を「資本主義によるラットレース」と称している。

ラットレースをリセットするために、佐宗さんはご家族とともに東京を離れ軽井沢へ移住することを決めた。移住とは、働き方、教育、人付き合い、娯楽・・・生きていくうえでのさまざまな事からのリセットとなる。

他者が規定した豊かさや幸せを目指すのではなく、自分自身の価値観を大切にする生活を「じぶん時間を生きる」と佐宗さんは表現した。

お子さんは大人の心配をよそにあっという間に土地に慣れ、のびのびと生活をしている様子。大人も新たな人との出会い、地域コミュニティも生まれ、仕事の肩書きとは関係なく人対人のつきあいのなかで、家庭でも職場でもない第三の場としての“ホーム”が生まれ幸福感も得られているそうだ。

しかし、すべてがうまく順調に「じぶん時間」を生きているかと言えば、そう簡単なことでもないらしい。場所は変わっても、オンラインにて仕事はどこにいても進んでいく時代。パソコンの前から離れることのできない日もあるし、子どもの将来、自分たちの老後のことなどを考えると、これが良い選択なのか悩むこともある。

これはまさに「トランジション(移行期)」にあるからのようだ。

本書は、コロナ禍を境に佐宗さんの中に起きた「生き方についての価値観の変化」を赤裸々に書き記した思考の履歴とある。

「変化」には外的変化による「チェンジ」と内的変化による「トランジション」の2種類があると言われるが、コロナ禍という環境、状況、場所のチェンジによって、著者にどんな内的変化であるトランジションが起きていたのかという、“いま・ここ”を生きていることの記録なのだ。

人生における転機には3つの段階があり、これは「トランジション理論」と言われる。

第一段階は「終わらせる時期」、第二段階は「ニュートラルゾーン(感性を刺激する活動を意識的に行う時期)」、そして第三段階は「新たな始まり(次のステージを始める時期)」だ。

「終わらせる時期」とは、たとえば転職や移住といった変化によって、これまで継続していた何かを終わらせて空白の時間をつくり、新しいものが入ってくるのを待つ。
「ニュートラルゾーン」ではこれまでとは異なる何かが始まる。偶然の出会いやひらめきで新しいことが始まる時もあるが、過去のステージをいったんリセットしているため、これまでの経験値を活かせず不安に襲われることもある。
そのようななかで、自分が何に感情を揺さぶられ、どんな人と関係を創っていきたいのか、自分のありのままの考えと向き合い見つめ直す機会が、自分のビジョンを形づくり、「新たな始まり」へとつながっていく。

これまで何の疑問も抱かず取り組んでいた仕事が手につかなくなったことも、自分が本当に住みたい場所を探し始めたことも、子どもの未来や家族のライフスタイルについて真剣に悩むのも、「他人と比較して生きる人生」から、「自分の尺度で生きる人生」へのトランジションが起きている証拠だと佐宗さんは語っている。

コロナが五類となり数か月経ったいま。
この3年間で起こっていたことが何もなかったかのように人が動き街は賑わい、世の中は元に戻ろうとしているように見える。もちろんパンデミックが収まったことは喜ばしいし有難い。

けれども、佐宗さんのように仕事や住む場所を変えるといった大きな「終わらせる時期」を迎えていない私ですら、コロナ前の時間の過ごし方には戻したくないと、どこかで抗っている。

佐宗さんは本書の最後に「成長のない世界」で生きることについても記している。

昨日よりも今日が成長しているという直線的な世界観で生きている以上は、時が金なりという感覚からは逃れられない。

近代以降、時間とは「直線」「過ぎ去るもの」であると考えられてきた。それに対し、近代以前の人々の時間感覚は、二十四節気や七十二候などの季節をベースにしたとらえ方のように「円環」「繰り返すもの」であったというのだ。

明日は今日と劇的に変わらないし、日々が繰り返しのなかで過ぎていく中で、未来から逆算して今の時間を過ごすのではなく、むしろ、今この瞬間に生きている感覚に意識を向けるということである。

私たちはいま、コロナという外的変化に伴うリセットで手に入れた「じぶん時間」と、以前のような生産性の罠とも言える「資本主義のラットレース」との間で、どのようにバランスを取っていくのか問われているのかもしれない。

すべてが同じ方向へと進んでいる時代ではないと思うが、意識していないと、大きな流れに飲み込まれ、依然と同じく他人時間のなかで自分が埋もれてしまうこともあり得る。

コロナ禍が終わり、社会が元に戻ろうとする動きになるだろう。
その間、あなたは生き方をどのように考え直しただろうか?
コロナ禍後にも残しておきたいものは何だろうか?
豊かさは一人ひとり形が違うから、1億人の人に1億通りの答えがある。
そういう世界になっていく。

本書は私にとって、トランジションの渦中にある曖昧な気持ちに向き合い丁寧に言葉にし綴り出版された著者 佐宗さん、出版社あさま社さん(軽井沢での出会いが出版のきっかけになったそう!)に感謝するとともに、この問いをヒントに自分の変化を客観的に眺め向き合っていきたいと思う一冊となっている。

(保谷範子)

じぶん時間を生きる TRANSITION
著:佐宗邦威; 出版社:あさま社; 発行年月:2023年7月; 本体価格:1,800円
メルマガ
登録

メルマガ
登録