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2006年04月11日

『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』 <全14巻>

著者:萩原延壽
朝日新聞社; 発行年月: 1998年10月~2001年10月; 1冊2,400円(税込 2,520円)~2,800円(税込 2,940円)
書籍詳細

「生涯を通して、ひとつの大きな仕事を成し遂げる」萩原延壽氏にとって『遠い崖』という本はそういう対象ではなかったか。在野の歴史家であり著述家であった萩原氏が、この本のモチーフであるサトウ文書に出会ったのは1959年の夏、留学中のロンドンの国立公文図書館であったという。


その後萩原氏は、78年秋に朝日新聞に『遠い崖』の連載をはじめ、途中休載をはさんで、終了までに10年の時間を費やしている。全14巻にわたるこの本の最終巻が世に出たのは2001年の10月。サトウ文書に出会ってから42年後のことだ。そして最終巻の刊行を見届けるように、この年の秋に萩原氏は世を去っている。半生を費やすに値するほど魅力あるテーマに巡り合えることがいかに幸運なことか、そして、巨大なパネルに小さなピースを埋めていくような緻密な作業がいかに忍耐と労苦を伴うことか、想像に難くない。萩原氏は、それこそ命を削りながらこの本は書き上げたのではないか。
アーネスト・サトウは、幕末から明治の日本で25年に渡って活躍した英国外交官である。『遠い崖』は、サトウが残した膨大な日記や家族・友人への手紙、公文書を中心に、サトウが交流した人々の業績・足跡を丹念に読み解いている。ひとりの外交官を主人公にした明治維新前後の日英の近代史を縦糸に据えつつ、異郷の地で、時代の流れに翻弄されながらも逞しく生き抜いていった外国人の人間ドラマを横糸に編みこんだ文字通りの大作だ。
私が『遠い崖』を読み始めたのはもう5年近くになるだろうか、「サトウ日記抄」とうたいながら、その枠をはみだし、叙述が幕末外交史や日英関係史へと拡大するにともない、手に負えなくなってあえなく挫折した。一昨年の秋に3年振りに読み直しをはじめて、一ヶ月に1巻のゆっくりしたペースで読み進み、 14巻を読了したのは昨年の初冬だった。おかげで、サトウの日記から入って、「サトウの生きた時代」を旅することが出来た。
限られた紙面で「サトウの生きた時代」の紹介を試みるだけの知識と力量を私は持ち合わせていない。幕末・維新の政治外交史の解説は専門家に任せることにして、異郷で生きた外国人の生涯に思いを馳せてみたい。
アーネスト・サトウは、1843年にロンドンで生まれた。父は大陸からの移住者で、金融業で財をなしており、経済的に恵まれた家庭で生まれ育った。稀代の秀才で中等教育を主席で卒業したサトウは偶然読んだ旅行記で日本に興味を抱き、19才の時外務省の「日本領事館通訳生募集」に手を上げる。日本へ着任したサトウは驚異的な言語学習能力を発揮し、わずか2年後には、独力で和英辞典を編纂するまでに日本語に精通する。やがて彼は卓越した語学力を武器に幕末・維新外交の主役のひとりに踊り出て、西郷、伊藤、勝といった維新の英雄達と厚い信頼関係を結ぶことになる。この頃サトウが書いた「英国策論」は天皇を中心とした諸藩連合政権構想を提唱し、明治維新の青写真になったと言われている。
サトウが日本の地を踏んだのが、まだ10代であり、「英国策論」を書いた時でも23才だったという早熟さには驚かされるばかりである。
またサトウの才は語学や外交だけでなく、歴史、民俗、植物、旅行記とあらゆる分野に発揮され、世界で最初の日本研究者として高い評価を獲得している。その当時、外国人から日本の歴史や文化について問われた政治家や政府の役人は、決まって「そういうことは日本人ではなく、サトウに聞け」答えたというから驚きだ。
外交官生活の晩年で日本大使を務めるまでになったサトウは、日清戦争後の日英関係強化の紐帯として活躍し、20世紀初頭の外交基軸となった「日英同盟」締結の基礎を築くことで外交官としての使命を終えた。父が移住者で両親ともに非国教徒であったサトウは、英国のエスタブリッシュ階級ではなかった。オックスブリッジ出身でもない通訳生あがりが、大使まで昇格することは、英国の外交官の世界では異例の昇進だったという。
また、私が、この本で深く惹かれる人物がサトウの友人で医師のウィリアム・ウィルスである。サトウと同時期に来日した領事付きの医師で、長く日本に留まり、サトウと終生変わらぬ深い交流を結んだ人間である。この本でサトウと並んで詳細な叙述をされているが、二人の歩んだ軌跡は対称的で、サトウが「正・陽」であるとすれば、ウィルスは「負・陰」である。
ウィルスは、暴力的な父親から逃げ出すように故郷を離れ、長兄の支援を受けて医師になったが、父親に束縛され終生結婚することができなかった3人の姉妹や母親に対して強い自責の念を持っていた。また若気の至りで生ませてしまった私生児もいた。来日したのは、「少しでも多くのお金を稼ぐ」という経済的な事情ゆえのことだった。この経済的な事情は、彼を死ぬまで束縛し、重要な意思決定の度に「負・陰」の人生を歩む理由ともなった。
彼の日記には、自分の給料を上げるために、けなげな努力を重ねている様子が詳細に述べられているし、そのわずかな給料の中から、せっせと故郷の母・姉妹や子供への仕送りを欠かさない。給料に直結する上司の評価をしきりに気に病む小心な人物でもある。ウィルスは、戊辰戦争の際に官軍兵士の傷病治療にあたったことをきっかけに、英国領事館を辞め、医師として日本で働くことを決意する。新政府の医療施設、薩摩の医学校と高待遇を求めて所属を変えていくが、その都度時代の流れに翻弄され、疲弊していく。サトウら友人に愚痴をこぼしながら、蓄財と仕送りだけを生きがいに日々を送っている様子が詳細に描写されている。
萩原氏が、サトウ日記抄でありながらウィルスの生涯にここまで頁を割いた理由は何だろうか。サトウには、仕事や研究だけでなく、生活すべてにおいて隙がない。外交官を辞め、英国に隠棲した後も、日本で一緒に暮らした女性やその子供達にも深い愛情を注ぎ、精神的にも経済的にも繋がりを切ることはなかった。対してウィルスは人生の立ち回りが下手で、目先の欲に目がくらんで失敗を繰り返す愚かな側面と過去の失敗を後悔し、何とかして償おうとする優しさをあわせ持っている。サトウよりも、はるかに俗物的でそれゆえ人間くさい人物である。ウィルスは、ある時期から萩原氏にとって、サトウ以上に想像力を刺激させられる人間的な存在に見えてきたに違いない。萩原氏のその変化は、稀代の才人の英雄談になりかねないこの本に、人間的な暖かみと深みを与えることになった。
萩原氏は『遠い崖』という題名の由来を、サトウが船上からはじめて見た日本のイメージを語った言葉「青い波に洗われた遠くそそり立つ崖」から借用したと紹介している。浦賀水道を抜けて東京湾に入り、三浦半島沿いに北上するとやがて青い海の向こうに屏風ヶ浦や本牧の岸壁が見えてくる。かつて外国人はこの風景を「ミシシシッピーベイ」と呼び美しさを称えたという。サトウもウィルスもこの「遠い崖」に近づこうと船を進めた。彼等はいったいどこまで日本に近づくことができたのだろうか。
萩原氏自身も日記を通してサトウやウィルスに近づこうと長い旅を続けてきた。萩原氏は、最終巻の最後で、サトウの帰任の様子を紹介しながら「日本の岸壁は遠かった」という言葉でこの著述を閉じている。他者を理解しようとすることの壮大さを改めて思う次第である。
(城取一成)

遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』 <全14巻>

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