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ジューン・トムソン/押田由起『シャーロック・ホームズの秘密ファイル』

2007年10月09日

著者:ジューン・トムソン/押田由起
出版社:東京創元社(創元推理文庫); 発行年月:1991年5月; ISBN:9784488272012; 本体価格:720円(税込価格756円)
書籍詳細

英国「シャーロック・ホームズ協会」に所属しているホームジアンである友人は、毎朝BBCのラジオ放送で目覚める。ネット時代もなんのその、愛機スカイセンサー5900のロッドアンテナが捉えたフェーディングだらけの容認発音に頷きながら、年季の入ったクレイパイプを燻らせているらしい。
「なあに、初歩的なことさ。」
毎朝の習慣を賞賛した私への、お決まりの台詞である。
彼はアルスターから引き出した懐中時計にちらっと目をやり、議論用のブライアーパイプを掲げながら続けた。
「いつロイズの地下金庫から、文箱が発見されるかわからないからな。」
とてもドラえもんで初めてシャーロック・ホームズを知った人間とは思えない、なりきりようである。
膝を打ちつつ我が意を得たりと大きく頷く私の悪乗りも、遠因なのかもしれないが。


既にご承知の通り、コナンドイル著のシャーロック・ホームズシリーズは、ホームズの盟友として共に事件に携わったワトスン博士の備忘録という形式で書かれている(後半の一部作品を除く)。
当然ながらオーナーであるホームズの許可なく個々の事件内容を発表することは出来ず、ためにタイトルや概要だけに言及したまま、遂に発表の機会を失った「語られざる事件」が100件近くある。
「ソア橋」(ドイル著「シャーロック・ホームズの事件簿」所収)の一節で、ワトスンはこう記述している。
『チャリング・クロスのコックス銀行の地下金庫のどこかに、元インド軍付、医学博士ジョン・H・ワトスンとふたにペンキで書きこんだ、旅行いたみのしたガタガタのブリキの文箱が保管されているはずである』。
友人が毎日待ちわびているのは、この文箱が遂に発見されたという、それこそこの世のものとは思えない程のスクープなのである。(コックス銀行は現在ロイズTSB銀行に吸収されている。)
かくいう私も、てんとう虫コミックス3巻第4話『シャーロック・ホームズセット』でいたく感動したくちである。
残されたパイプ一つからその人物の特徴を推理する(参照:ドイル著「黄いろい顔」~「シャーロック・ホームズの思い出」所収)というかっこよさに、のび太同様すっかり痺れてしまった私は、件の友人とすぐさま「ホームズ推理倶楽部」なるものを結成し、日常の謎に果敢に挑戦していた。
当時、ライバル関係にあった「少年探偵団明智一家」とのクラス中を巻き込んだ切磋琢磨(迷惑至極)の伝説は、今でも先生方の語り草となっているらしいが、当然ながら我々の記憶からは抹殺されている。
ところで、シャーロック・ホームズの熱狂的なファンの呼称であるシャーロッキアン(英国ではホームジアン)は、ドイルが書いた4つの長編と56の短編からなるシャーロック・ホームズ作品を、「正典(Canon)」と呼んでいる。
敬虔なシャーロッキアンにとっては、この60の作品のみが唯一無比の存在なのだが、蒐集癖のある私が、パスティッシュ(模写・模倣)やパロディ(滑稽な模倣)に興味を示していったのは、自然な流れであった。
因みに、シャーロッキアン向けサイト『the Diogenes Club』によると、「シャーロッキアン道」を究めるには17の段階を踏む必要があるのだそうだ。
コレクターはステップ8の若輩者と定義されているので、以降の文章は「似非シャーロッキアン」による独断と偏見によるものであることを先に申し添えておく。
忘れもしない1991年6月15日。1998年冬季オリンピックの開催地が長野に決まりマスコミが大騒ぎしている中、私は興奮をおさえきれずに文庫本の頁を繰っていた。
ジューン・トムスンのシャーロック・ホームズシリーズ第1弾「シャーロック・ホームズの秘密ファイル」を入手したのだ。
自身もシャーロッキアンであり、フィンチ警部シリーズで人気を博しているミステリー作家である彼女は、真正面から「語られざる事件」を採り上げ、正典に挑戦状を叩き付けてきた。
前述の「ソア橋」に記載されているたった2行の文章が、巻頭の事件のモチーフとなっている。
『これら未完成の事件の中には、自宅へ雨傘を取りにはいったきり、この世から姿を消してしまったジェームズ・フィルモア氏の話もある。』
この記念碑的第1作「消えた給仕長」を読み終えた時の快哉・余韻は、今でもありありと思い浮かべることが出来る。
「今度こそは!」と期待しながら読んだ本に何度となく失望させられたり、タイトルに「ホームズ」と書いてあるものを片っ端から購入し、「アイランドホームズのハワイ不動産投資」に呆然とした日々よ、今日をもってさようならである。
読み進める度に作品のクオリティの高さに感嘆し、積年のストレスが行間に溶けて行くような幸せな一時であった。
2つ目の作品「アマチュア乞食」は、「五つのオレンジの種」(正典「シャーロック・ホームズの冒険」所収)に書かれてある『ある家具倉庫の地下室に贅沢なクラブを設けていた素人乞食協会事件』の一行を題材としたもの。
以下、「奇妙な毛虫」」「高貴な依頼人」「名うてのカナリア訓練士」「流れ者の夜盗」と続く。正典の記述の場所を逆探する時間も、とてつもなく楽しい。
本書のおおとりを飾る「打ち捨てられた灯台」は、日本の「鵜飼」が重要なキーワードとなっている。
「覆面の下宿人」(正典「シャーロック・ホームズの事件簿」所収)に『ある政治家、灯台および調教された鵜に関する件』と記述された箇所がある。
トムスンは、この「調教された鵜」と「鵜飼」を結びつけたトリックを考えた。
因みに、ドイルは日本に興味を持っていたようで、幼馴染のウイリアム・K・バルトン(全国各地の上下水道、浅草凌雲閣を設計したイギリス人)を通して知った【甲冑】【聖武天皇と正倉院】【バリツ】(恐らく柔道のこと)といった言葉を正典の中に織り込んでいる。
残念ながら正面きって日本の風習等を取り入れた作品は無かったが、ここでトムスンが「鵜飼」を採り上げたのも、ドイルの遺志を感じたからなのかもしれない。
その後トムスンは「シャーロック・ホームズのクロニクル」「~のジャーナル」「~のドキュメント」と計4冊28作品を世に送り出すことになる。
巻をまたいだ続編があったり、注釈の参照事件がトムスン作であったりと、読み進むにつれ正典との乖離が起こり、必然的に正典の存在感が希薄化してしまいがちだ。
16年間繰り返し読んできた私などは、正典だったかトムスン作品だったか、時にわからなくなってしまう。
まさに著者の思う壺であり、掌中で弄ばれているようだが、至高の時を過ごすための副作用として受け留めるしかないであろう。
さて、ホームズ作品蒐集家としては、対極にあるパロディ作品も紹介しておかねばなるまい。
一押しは、黒崎緑著「しゃべくり探偵」(創元推理文庫)である。
副題に「ボケ・ホームズとツッコミ・ワトソンの冒険」とあるように、こてこての関西弁による会話が繰り広げられる漫才ミステリーである。
本題に入るまでがやたらと長い。しかも「アホなこと言っとるな」とニヤニヤしながら読んでいると、それが事件の伏線になっていたりするから始末に終えない。
ホームズ役は保住、ワトソン役は和戸。これ以外にも「守屋亭」「破土村さん」「安土良」と、シャーロッキアンなら思わずニヤリとする名前が登場する。
関西の友人が、「電車の中で耐え切れんと声出して笑ってもた。傑作やで。」と高い評価をしていた一品である。
ぜひ、電車の中で笑い飛ばしつつ、サブプライム問題を吹き飛ばしていただきたい。
本原稿を書くにあたり、正統派ホームジアンの評価を賜ろうと、トムソンの4作品を送ったところ、先日メールが届いた。
『シャーロック・ホームズの秘密ファイルについて
拝啓 19日御依頼に関して、貴下ご推薦の本4冊を詳細拝読し、満足すべき内容であることを確認いたしましたのでここにご報告申し上げます。時代考証、推理の一貫性、登場人物の性格づけ等が水準以上のレベルで描かれており、正典の正統な後継者の一人として、今後の活躍を大いに期待するものであります。貴下のご推薦をあつく感謝しつつ 敬具』
返事を読む限り、正典の一節に準えたものらしいが、私は彼と違って頭の中に「正典大全」がインプットされているわけではないので、ドイルを読み返す時までの謎としてとっておくことにしよう。
秋の夜長、正典原理主義の彼の心を揺さぶった本作品を手にとり、しばしヴィクトリア時代のベーカー街に降り立ってみてはいかがだろう。
(黒田恭一)

シャーロック・ホームズの秘密ファイル』(創元推理文庫)
しゃべくり探偵』(創元推理文庫)

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