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愛について考える~『愛するということ』(エーリッヒ・フロム著)を通して~

2008年04月08日

著者:エーリッヒ・フロム、訳:鈴木晶
出版社:紀伊國屋書店; 発行年月:1991年3月; ISBN:9784314005586; 本体価格:1,262円 (税込 1,325 円)
書籍詳細

「皆さんには愛する人はいますか。」
多くの方が、そんなのは当たり前。何を馬鹿げた質問をとお怒りになるかもしれません。
それでは、ちょっと変えて。
「あなたは愛することを意識していますか。」
私事ですが、今年始め、公私ともにお世話になっていた方、恩人ともいうべき方が49歳の若さで亡くなりました。家族ぐるみのお付き合いだったこともあり、機会ある度に、家族、仕事、生き方、そして人生・・・と広くさまざまなアドバイスをいただき、人生の先輩として大きな背中を示してくれていた方でした。若くして会社を興し、自身の故郷を活性化するためにも地元に根付いた企業をと、人一倍熱く使命感に燃え、人生を謳歌していらした方でした。


あまりにも突然の訃報に、最初は耳を疑うと同時に、それを事実として受け入れることができませんでした。しかし、悲しいかな、告別式など諸々の儀式が済み、時が経つにつれ、他界された悲しみや失望感を思う存分噛みしめていくうちに、彼が話してくれたこと、語りかけてくれたこと、教えてくれたことを反芻している自分に気がつきました。
彼が大切にしていたことは何よりも“愛”そのもの。
妻への愛、家族への愛、自社の社員への愛、そして地元の方、お客様、取引先の方々・・・自分がしたことが少しでも誰かの役に立つように、誰かが幸せになるようにと日々奔走をしていました。
よく話してくれたことは、地元の果物や野菜を加工してジャムやドレッシングにする食品会社を興したという自社の製品に絡め、
「どんなに美味しい果物もその良さ、そのモノが持つ特長を知らないと美味しい製品はできない。特長を知ること、そしてその特長をさらに引き出すことに努力を怠ってはいけないんだよ。これは人についても同じ。相手の良いところを知ろうと努力すること、そしてさらに、その良いところがさらなる長所となるように、一緒に磨き大切にしていかないといい関係はできないんだよ。」
本人ですら気づかなかったような相手の特長を人一倍早く見いだし、声に出し伝え、それを一緒に深めていく。自社の社員育成にその想いを強く盛り込んでいたうえ、会社や仕事とは関係のない私ですら、会うたびに、自分の新たな一面を一緒に見つけてもらうことが嬉しくて、そして、それによってたくさんの自信を頂いたことを思い出します。
愛情をもって人と接すること、どんな事にも愛情をもって取り組んでいくこと ―彼の信念はまさにここにありました。
“愛”とは何でしょうか。
普段は口にするのも恥ずかしいようなこの言葉。平穏な日々を過ごすなかで、どこかで当たり前のこととして、改めて考えてみる、問い直してみることの少ない事柄かもしれません。彼が残してくれた言葉をきっかけに、愛について改めて考えてみたいと思うようになりました。
『愛するということ』の作者エーリッヒ・フロムは、本書の中で「愛は技術である」と断言しています。技術を習得するためには、(1)理論に精通し、(2)その習練に励み、そして、(3)その技術を学ぶことを自分にとっての究極の関心事とすること。しかし、私たちの多くは、愛に技術が必要だとは思ってはいません。愛は学ぶというよりは、自然に沸き上がるものであり、愛とは、対象の問題であって能力の問題ではないと考えています。愛することは簡単だけれども、愛するにふさわしい相手、あるいは愛されるにふさわしい相手を見つけることは難しい-という思いこみから抜け出せないから、「愛は技術である」ことを多くの人が否定するのだとフロムは指摘するのです。
愛とは与えられるものではなく、自分のなかに息づいているもの(喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど)を相手に与えることであるとフロムは言います。愛とは受動的なものではなく能動的であり、「落ちる」ものではなく「踏み込んでいくものなのだ」と。与えることによって、人は他者を豊かにし、自分自身の生命観をも高めることができると言うのです。愛とは本来生産的なものであり、与えることによって必ずや他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分にもはね返り、受け取り、お互いのなかに何かが芽生えていくものなのだと。「何かを育てる」ことに愛の本質はあると。そして、フロムは本書の中で、さまざまな愛の形―親子愛、兄弟愛、母性愛、異性愛、自己愛、神への愛―をも表しています。
本書が書かれたのは1950年半ば。精神分析家、社会心理学者であるフロムは、資本主義が隆盛を成し、西洋文明の社会構造が発展し豊かになるなかで、人々が与えられることに慣れきってしまうことや、個人主義とは名ばかりで、集団に同調し同一化していくことにより、大切な何かを見失うことの危険性を示唆し案じています。しかし、これは半世紀たった今でも変わらないことなのかもしれません。
私たちが、唯一無比の存在である限り、相手のすべてを理解することはできないし、相手にも自分のこと全てを理解してもらうことは不可能です。でも、相手を理解しようとする気持ち、少しでも分かり合おうとする気持ち、それが愛というのであれば、それは自然に沸き上がるものでも、「落ちる」ものでもなく、謙虚にそして真摯に向き合い努力していく何ものでもないように感じます。
愛とは自分の存在や息づいているものを消して他者に尽くすこと(=依存)によって成り立つものでも、自分が全てとして服従させるもの(=支配)でもありません。自分は自分自身であるとして、お互い尊重しあいながら、自身の全体性と個性を保ったまま成り立つのが本来の愛なのでしょう。
私たちは、集団に属し、そこに同調することにより、孤独感を克服したと思い安心しがちです。愛とは、同調のなかに生まれるものでは決してなく、相手の中に「踏み込んでいき」、相手が持っているものと自分との違いを知り、それを認めることによって成り立つものなのでしょう。自分との違いを知ること、そしてそれを認めることは時に厳しい作業であり、一時的には本来目指すべき関係とは真逆とも思えるような方向に進むこともあるかもしれません。だからこそ、愛は技術であり、理論を学び習練する必要があるとフロムは教えてくれているように思うのです。
今回、恩人が残してくれた言葉を紐解くように“愛と何か”について考えてみました。もちろん、唯一の答えなどない問いであり、一生をかけて実践しながら私なりの解を見つけ出していくものであることは間違いありません。でも、今言える事は、自分は“愛”についてもう少し利己的に考えていたことに気づいたとともに、相手のなかに入り込むことへの怖さ(それは、相手と自分の違いを知りそれを受け止めることに臆病になっていたからかもしれません)ばかりが先走っていたことを感じました。
最後に本書の冒頭に書かれている一節を。

何も知らない者は何も愛せない。何もできない者は何も理解できない。何も理解できないものは生きている価値がない。だが、理解できる者は愛し、気づき、見る。・・・ある物に、より多くの知識がそなわっていれば、それだけ愛は大きくなる。
     ―パラケルスス(15世紀の医師、錬金術師)

さまざまな出会いのある春。どうぞ、相手のなかに勇気をもって「踏み込み」、愛ある出会いを広げてみてください。そして、愛する人がそばにいるこの日常に感謝を込めて・・・。
(保谷範子)

愛するということ 新訳版』(紀伊國屋書店)

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