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管 宗次『京都岩倉実相院日記-下級貴族が見た幕末-』

2009年10月13日

著者:管宗次 ; 出版社:講談社(講談社選書メチエ) ; 発行年月:2003年3月; ISBN:9784062582636 ; 本体価格:1,500円(税込 1,575 円) 書籍詳細

 西行の「松屋本山家集」の中でも詠われている京都市岩倉の地に、「実相院」という名刹がある。
有名な瀧の間の「床みどり」は、庭の青楓が、漆を混ぜたワックスによって磨きこまれた黒床に映り込む借景を指しているのであるが、射し込む光芒や時折頬を撫でる風の加減によって、微妙に変化する。 
苔色・萌黄色・若苗色といった日本の伝統色が放つ光彩が、瞬時に足を固定せさしめ、遂にはその場と一体化するような感覚をもたらすのである。
1/fゆらぎ研究の第一人者である武者利光氏は、この心地良さを『生体の基本的なリズムのゆらぎが、自然の中のそれと一致する』からであると解説している。(武者利光著『人が快・不快を感じる理由』河出書房新社)
 磁場は、人だけでなく歴史をも吸い寄せる。
1998年10月15日付けの京都新聞1面に、「歴代門主の日記発見/江戸-明治の300年間/左京の実相院」という記事が躍った。(註1)
実相院は、1229年に関白藤原基通の孫である静基権僧正が開山した問跡寺院(皇族から門主を受け容れる、格式の高い寺)であるが、江戸時代初期には足利義昭の孫が門主となるなど、将軍家・宮中の双方に強いパイプを持っていた。


神君家康を祀るための祠がある境内の中で、桜・柳・楓・松に四隅を囲まれた古式ゆかしき蹴鞠が優雅に催されていたという。
 このニュートラルさが幸いしたのであろう。
発見された日記には、伝奏という幕府公式ルート、里坊と呼ばれていた町中の出張所、あるいは京都奉行所の与力といった、実に様々な方面からの情報が掬い取られている。
 「京都岩倉実相院日記」の著者である管宗次/武庫川女子大学文学部教授は、武者隠しでひっそりと眠っていたこの日記を通読していて、一人の有能な執筆者を発見する。
1655年から連綿と書き続けられてきたこの日記の、幕末から明治にかけての記録者、松尾刑部親定坊官である。
世襲制である門跡坊官は、「房官」とも呼ばれ、僧坊内の事務全般を司っていた。
「地下(ぢげ)」といって昇殿は出来ないものの、立派な貴族の一員である。
管教授は、彼の圧倒的な行動力と旺盛な好奇心に注目した。
何しろ、公的情報を記すのに飽き足らず、天誅があったと聞けば町民に交じって噂話を収集し、落首があれば全文を書き写し、ヨイジャナイカ(エイジャナイカ)踊りがあればその姿を絵心たっぷりに書きあげてしまうのだ。
彼がせっせと収集した、言わば歴史の裏舞台の描写は、激動の時代の端境期を活き活きと再現してくれている。
 本書で収集されている日記の中核を成すのは、文久二年(1862年)の出来事である。
この年には、1月15日/坂下門外の変、4月23日/寺田屋騒動、8月21日/生麦事件と、血なまぐさい事件が立て続けに勃発した。
公武合体論に対する尊皇派の反発・内紛・攘夷が事件に直結し、それを抑えきれなかった幕府の権威が急速に低下していったのもこの頃である。
また、それと反比例する形で、志士達が活躍できる自由な環境が整いつつあった。
3月24日に脱藩した坂本龍馬の名も、4月26日付けの土佐藩京都藩邸からの脱藩者記載に関する内密文書の中に記されている。(本書45頁)
 一方、不安定な世相において流布される虚実様々な情報は、娯楽の対象となった。
「太閤記」「諸国名産魚尽し」「忠臣蔵」「茶事」「チョボクレ」(チョンガレとも呼ばれている当時の大道芸)「太平記」「鉢の木」といった諷刺・落首の類が、次々と町中を賑わせる。(本書115頁~139頁)
市井の洒落者の高い教養とセンスの良さもさることながら、これらに喝采を浴びせていた庶民のレベルの高さも注目に値しよう。
 この当時の日本の識字率の高さは、世界の中でもトップクラスであり、寺子屋の生徒数から推測すると、全国平均で40~55%、江戸では70~80%だったと言われている。
1865年に日本に立ち寄ったシュリーマンは、『日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。』(石井和子訳 「シュリーマン旅行記清国・日本」 講談社)と驚き、福澤諭吉も『凡そ国の人口を平均して、字を知る者の多寡を西洋諸国に比較しなば、我日本をもって世界第一等と称するも可なり』(「通俗国権論」1878年)と断言している。
 時計を進めよう。
4月から7月にかけては、全国的に麻疹が猛威を奮った。
江戸では、コロリ(コレラ)まで蔓延し、10万とも20万とも言われる死者が出たと伝えられている。
京都でも罹患者が多かったのであろう。
6月15日には、麻疹にきくという「おまじない」が収集されている。(本書51頁)
一枚の葉っぱの絵の中に、「麦どのは生れながらにはしかしてかぜからちよともとのからだで」という歌があり、その使用方法が克明に説明されている。
日記には「たろよ」の葉と書かれてあるが、江戸で盛んに発行されていた「はしか絵」を調べたところ、「多羅葉(たらよう)」の葉であることが判明した。
この葉は、裏側を削ると茶色に変色して文字が書けるため、「ハガキの木」とも呼ばれ、郵便局のシンボルツリーとなっている。
 8月13日の日記では、「色青白ク」と記された、一見線香花火のような彗星が、北斗七星左側の天空を翔け昇っている。(本書48頁)
これは、同年に地球に近づいた「スイフト・タットル彗星」を写生したものである。
この彗星は、ペルセウス座流星群の母天体であるため、出現前後に流星の雨を降らせる。ところが、この年に限っては、1時間に1000個以上の星が流れる「流星嵐」を引き連れてきていたのだ。
群馬県赤城神社に保管されている「年代記」の8月10日の記録に、「流星ノ如キモノ空中ヲ飛コト数千」と書かれてあり、実相院日記にも「七月十五日夜四つ時頃に、星多く飛申候」(本書48頁)と記されている。
 古来、彗星の出現は凶事の兆しと言われてきた。
江戸でコロリが流行った1858年には、ウイリアム・ダイスの絵画で有名なドナティ彗星が、そして前年の1861年には昼間でも見える位明るかったというテバット彗星が地球を訪れた。
そして今年は、大量の流星群を露払いとして従えた青白い彗星が、尾を引きながら悠々と夜空を彩っている。
 松尾親定も、次第に不安を覚えるようになった。
12月になると、世の中の乱れとこれらの天変を紐付けながら、後漢書からの引用を用いた仮説論文を書き綴っている。
曰く、『光り物、中天に飛候を見、今年に至て考えるに奇変の前表に哉』。(本書59頁)
アンテナ感度の高い、現実的な彼でさえ、このような心境に陥っているのだ。
当時の庶民の間では、もっと荒唐無稽な噂が駆け巡っていたのかもしれない。
 松尾家の系図を確認すると、1706年に初代兼林が坊官に就任してから親定で7代目となる。(三上景文/正宗敦夫著「地下家伝」5巻 現代思潮新社)
太平の世が続けば、この年16歳になる子息の8代目襲名を見届けることが出来たであろうに、厳しい現実は目の前にまで迫っていた。
このあたりのくだりは、本書の物語性を鑑みて、これ以上深く触れないことにしたい。
管教授の『なにもこんな時代に責任者にならなくてもね』(本書202頁)という問わず語りで想像いただきたいと考えている。
 最後に一つ、残念なお知らせをしなければならない。
本書が絶版となっているのだ。
ここでは触れなかったが、岩倉具視や新撰組に関する日記も採取されているので、古本屋で見つけたら、ぜひ手にとって、当時の空気感を味わっていただきたい。
表紙は、げにも美しき岩倉実相院名物「床紅葉(ゆかもみじ)」である。
(註1)
発見時、「1655年から明治初頭までの日付がある」と報じられたが、京都市歴史博物館による最新の調査結果によると1939年までの日記が存在しているようである。
第二次世界大戦勃発と共に門首が用心のために隠したというあたりが真相であろう。
また、当初門主が書き継いだものと考えられていたが、実際は坊官による記録であることが判明している。
(黒田恭一)

京都岩倉実相院日記-下級貴族が見た幕末-』(講談社(講談社選書メチエ))
岩倉実相院ホームページ http://www.jissoin.com/

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