KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

今月の1冊

2009年12月08日

『どこか遠くへ』

著者:種田 陽平 ; 出版社:小学館 ; 発行年月:2009年10月; ISBN:9784096820407 ; 本体価格:2,000円(税込 2,100円) 書籍詳細

みなさんは、子どもの頃のことをどれくらい覚えているだろうか?家族や友だちとの楽しかった思い出や、何気ない日常の中で見たこと、感じたことやその時の空気、空の色など。
私は、実はあまり覚えていない。普段の生活の中で、「思い出すことをしてこなかった」ために、どんどん子どもの頃の記憶が薄れてしまったように思う。特に、社会に出てからは、日々の仕事に追われ、立ち止まったり振り返ったりすることなく、前に進むことだけを考えてひたすら走り続けてきた。「それでいいの?」とたびたび自分に問いかけるものの、「今は忙しくて振り返る余裕なんてない」と言い訳をしながら過ごしてきてしまった。そして、仕事や人生の区切りごとに、気分を一新させるために意図的に記憶をリセットしてきた。しかし、リセットして戻る場所は、いつも社会に出たばかりの自分。無意識のうちに、社会人1年目を自分のスタート地点と決めつけ、それ以前の自分をいつの間にか忘れ去ってしまっていた。皆さんも、いつの間にか自分のスタート地点を就職してからと決めてしまってはいないだろうか。


先日、久しぶりに自分の通っていた小学校の近くを訪れる機会があった。小学校の周りには新しいビルやマンションが建ち、私が通っていた頃とは少し風景は異なっていたが、ひとたび通学路を歩いてみると、懐かしさを覚えて埋もれていた記憶が急に息を吹き返してきた。そして「大切なものを失ってしまっていた」ことに気付いた。
そんな矢先、映画好きの友人が一冊の絵本を紹介してくれた。美術監督の種田陽平さんの著書『どこか遠くへ』(小学館)という本だ。種田さんは『スワロウテイル』『いま、会いにゆきます』『THE有頂天ホテル』『フラガール』、最近では『アマルフィ 女神の報酬』や『空気人形』数々の映画の美術監督を務められ、多くの賞を受賞されている方だ。この本を紹介されて、私の好きな映画の多くに、種田監督が関わってこられたことに初めて気がついた。半年程前には、TBS「情熱大陸」にも出演されていたのでご存知の方も多いかもしれない。
「美術監督」という言葉を初めて聞かれた方のために紹介しておくと、「美術監督」は、美術セットを作るだけでなく、映画全体の世界観や背景を作り上げるとても重要な役割を担っている監督。台本や監督の言葉からイメージを膨らませ、映画全体の世界観を作りあげる。そしてその一部を、映画の中に美術セットとして具現化させる。そこで拠りどころとなるのはこれまでの人生体験の全てである。
本書には、種田監督が幼い頃から大学生に至るまでの間を、大阪、千葉、富山、神奈川などの各地で過ごし、様々な人とのふれあいや出来事を通じて、見たり、聞いたり、感じたことが17のエピソードとして、素敵な絵や写真とともに綴られている。特に、私が好きなのは「月は見ていた」というエピソードだ。その中には「見上げると、夜空に満月が浮かんでいた。僕が歩くと、月も一緒に動く。僕が立ち止まると、月も止まる。僕が走ると、月もまた走る。月は僕を見ていた」という一節がある。何気ない日常の一場面だが、月や太陽と追いかけっこをしたり、長く伸びる自分の影を必死に振りきろうとしていた、純粋な子ども時代の記憶が蘇ってきた。決して色鮮やかで力強い成長の物語ではないが、どのエピソードも映画の1シーンのようにほんの少し切なくて温かく優しい世界を醸し出している。
種田監督の映画には、本書と同様に、細かいところまで一貫して独特の懐かしい空気が流れているように感じる。私の大好きな映画『フラガール』は、昭和40年代の常磐炭鉱を舞台に、夢をあきらめないことの大切さを描いた作品だが、活気が失われつつある炭鉱町と日本人が憧れをいだいていた夢のハワイを、一つの石炭屑の山に重ねて表現している。壮大な美術セット、時に目をひく小道具、登場人物の衣装や表情など、視覚として入ってくるもの全てが絶妙なバランスで構成され、私たちを強く惹きつける。『フラガール』以外の作品もその時代や場所に溶け込み、あたかも自分がその世界にタイムスリップしたかのように感じさせてくれる。映画の1シーンと本の1ページとがオーバーラップする。
本を読み進めていくと、自分の子ども時代と重なり共感できる部分があったり、照らし合わせてみたくなる部分があったりして、忘れかけていた記憶が蘇ってくる。そして、思い出をたどることは、新しい発想を生み出すために必要なものだと気付かせてくれる。
同時に、子どもの頃、何の偏見を持たずに、全ての物事を新鮮な目でまっすぐに見ていた自分がいたことを思い出す。本書のタイトル『どこか遠くへ』にもなっているエピソードの中に「冒険から戻ると見慣れた空間が異空間に感じる。どこか遠くに出かけるひそかな楽しみ」という一節がある。これはビジネスでも全く同じだと思う。日頃やらないことをやってみること、行かないところへ行ってみるといったほんの少しの冒険が、新たな視点への気づきを与え、常に新鮮な目を持ち続けられる秘訣だと種田監督は教えてくれたように感じた。そして、当然のことながら、子どもの頃の体験が全て今につながっていて、それを大事にしているかどうかで心の豊かさや将来の道筋が変わってくるのだと強く感じ、大切な過去を振り返ってこなかった自分を恥じた。
余談だが、慶應MCCで働くようになってから、「振り返る」ことの重要性を改めて認識するようになった。プログラムで学んだことは、きちんと振り返りをして自分のものとして吸収することが大切。ときには、先に進むことより大切な「振り返る」こと。日々の積み重ねが今日の自分を築いているということをこれからは今以上に意識して過ごしたいと思う。
本の最後には、種田さんの愛読書であるローマ皇帝 マルクス・アウレーリウスの『自省録』の一節、「すべて君の見ているものはまもなく消滅してしまい、その消滅するところを見ている人間自身も消滅してしまう」と書かれている。様々な解釈のできるこの言葉だが、みなさんはどう解釈するだろうか。本書を読んだ後の私は、人の一生はあっという間だから時間を無駄にしてはいけない、だからこそ自分の生きた軌跡を何かの形で残していこうという2つのメッセージが含まれているように感じた。私の中で、これに対する明確な答えや今後の方向性は、まだ用意できていない。その答えを見つけるためにも、もう少し種田ワールドに浸りたいと思う。
お子さんのいらっしゃる方にはもちろん、映画好きの方、ビジネスで現状を打ち破り新しい発想への道を開きたい方にもお薦めの一冊。年末年始のお休みを、この一冊と種田美術監督の映画とともにご家族で過ごされてみてはいかがだろうか。
(石川夕貴子)

どこか遠くへ』(小学館)

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