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夕学レポート

2024年06月07日

東 浩紀氏講演「「訂正すること」の意味と価値」

東 浩紀
批評家・作家
株式会社ゲンロン創業者
講演日:2024年6月4日(火)

東 浩紀

頷いたり、首を横に振ったり、かしげたりと最後の質疑応答も含め、東浩紀さんの講演は私にとって忙しい時間となった。「『訂正すること』の意味と価値」の講演は次の4つから構成されている。

  • 人間は「同じ規則」を守ることができない
  • 人間は「閉じた共同体」を作ることができない
  • だからたえず「訂正」するしかない
  • 訂正(≒価値の再発見)のダイナミズムが社会を前に進める

全体を通して「『同じ』であり続けることはできないから変わることを恐れるな」というメッセージが発せられた。「変わることを恐れるな」のメッセージは賛成なのだけれど、「『同じ』であり続けることはできない」を支える例には「?」をつけたくなるものもあった。

かくれんぼから鬼ごっこ、ドロケイへと遊びが変化すれば勝ち負けのルールが変わる。当初遊びの変化に気づかない子供がいても話し合いややり取りをする中で同意が生まれる。そうでなければ勝ち負けのある遊びは成立しない。逆にいえば勝ち負けのない遊びやものごとなら「同じ」であり続ける例として成立するかもしれない。東氏が指摘したかったのは「社会がいつの間にか変化してしまったのに渦中にいる人は気づいていないものだ」ということなのか。民主的な国家がいつのまにか独裁国家に変化してしまったというような。

同時に「普遍的にあるルールの下で、ずっとやってきた『前と同じように』は証明できない」というのもまた本当だろうか? 社会にはそれぞれ社会的合意や慣例、(裁判なら)判例などの積み重ねがあり、それに基づいて判断がなされる。それは判例などのいかめしい言葉でなくても土地ごとの風習がそうだ。そこから逸脱すれば皆が「違和感」をもつ。たとえ言語化されていなくてもその社会の人々が共有している共通認識として存在する。それが証明になると思うのだがいかがだろうか。

3点目の「だからたえず「訂正」するしかない」については半分同意で半分反対だ。ミハイル・バフチンの「終わりなき対話」(『ドストエフスキーの詩学』より)の言葉を用い「捉え直す」ことで「(既定の意味を)広げている=訂正している」といい「Political correctnessではなくPolitical correctingというべき」といわれるのだけれど「捉え直し=訂正」なのだろうか? 訂正は「誤りを正す」の意味なので、ずいぶんと進化論的に聞こえる。つまり「過去は誤り」を前提にしていることになってしまう。捉え直しは過去の否定の意味はなく、単なる「捉え直し、解釈の再検討」に過ぎない。

そしてこの捉え直しの仕方はむしろ時代背景や権力者の意向などによるところもある。山室信一氏がかつて「空間アジア」との言葉を用いて「アジア」の捉え方が時代によって変化するさまを評した。同様のことは東氏の「自分がいかなる共同体に属しているか、実際には理解していない。遡行的に後から見いだされる」にもいえるのではないか。「『実は私は〇〇人だった』と目覚める」は本当に「目覚める」ものなのか。アイデンティティの中のひとつをその時に「選んだ」だけではないのか。ロシア系ウクライナ人のように、複合アイデンティティの人は外的な何かや自分がいる社会との相違点や同一感を感じる度に選んでいるように思える。複合アイデンティティでなくても、例えば「20代の日本人女子大生」がいたとする。世代の離れた人の中にいて居心地の悪さを感じる時もあれば、外国に長期滞在をして慣れぬ外国生活に疲れた時に世代は違えど日本人と会ってほっとすることもあるだろう。男性が主な業界に就職して違和感を覚えることもあれば、学歴や専門の違う職種の同性と出会い戸惑うこともあるかもしれない。その度ごとに感じて選ぶ「自分のアイデンティティ」は異なる。

東氏は「政治は必ず『政治の外』を必要とする」といって「文化は政治に飲み込まれてはならない」と強調し、ロシアによるウクライナ侵攻後ウクライナで言語やおもちゃといったものに戦争が入り込んでいる実態を紹介した。ただし文化と政治を切り離すことは難しいかもしれない。文化やアートが生活に密着し、人間の心の中からから生まれるものである以上、生活に密着したことがアートに反映されるのは当然だからだ。大衆文化ほどこれが顕著のはず。どうしても何気ない日常の描写に戦争が入り込んでしまう。これは良し悪しの問題ではなく、むしろ(日常になった)戦争を取り入れない方が強烈なメッセージにすらなり得る。とても難しい問題だ。

とまあ、我ながら東氏への反論めいたものを多々書いたけれども、実は最後の質疑応答で強調されたことには大賛成なのである。それは「日本の学校教育の中で『発表』でなく『ディスカッション』の時間を作るべき」との考えだ。「対話して意見が変わることを良しとする教育をすべき」との考えには大賛成している。相手の考えを打ち負かすことを目的として躍起になっている人をよく見かけるが、それは大抵ちょっと知恵の回る男子学生だ。生まれたばかりのアイデアはあやふやで形を成すのに時間がかかることがある。しかしそれを叩き潰してしまうような議論をしてしまい、せっかくの可能性の芽を摘み取ってしまう。早急にディスカッションの時間を学校教育で作って欲しい。国会の論戦を見ていると何だかなーと絶望的になるけれど。ディスカッションを通して新たな可能性を伸ばしていける、そういうものが大切だ。ディスカッションは、相手を打ち負かすことを目的とするディベート(原義は「打ち負かす」(beat))ではないのだから。

この「対話」を東氏は「スポーツに近い」と表した。テニスでいうならラリーのような、やり取りのし合いを表現しているだろう。私はむしろ何かを生み出すイメージから共同制作のアートではないかと思う。だから、いうなれば本レビューも東氏の講演への派生的共同制作(?) のようなものかもしれない。愛をこめて。

(太田美行)


東 浩紀(あすま・ひろき)

東 浩紀
  • 批評家・作家
  • 株式会社ゲンロン創業者

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。
著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』など。

株式会社ゲンロン:https://genron.co.jp
ゲンロンカフェ:https://genron-cafe.jp
webゲンロン:https://webgenron.com
X(旧Twitter):東浩紀 Hiroki Azuma @hazuma

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