夕学レポート
2024年06月10日
今井むつみ氏講演「言語の本質」
「100万回死んだねこ」
「ストラディバリウスはこう言った」
「村上春樹の、とんでもなくクリスタル」
いずれも有名な本のタイトル…のようにも見えるが、実はどれも図書館の司書が利用者から尋ねられた“間違ったタイトル”だ。
これらは2021年に講談社から発行された『100万回死んだねこ 覚え違いタイトル集』の中に出てくる実際の事例で、まとめたのは福井県立図書館の司書たち。地味なテーマと著者(失礼)ながら、8万部ものベストセラーとなった。
今回の講師である慶應SFCの今井むつみ教授は、認知心理学者として、この本に出てくる事例に強い関心を持ったという。
利用者が口にする曖昧で間違ったタイトルを聞いた司書は、たちどころに正しいタイトルを提示する。
「あぁ、絵本の“100万回生きたねこ”ですね?」
「ニーチェの“ツァラトゥストラはかく語りき”でしょうか?」
「村上龍の“限りなく透明に近いブルー”ですか? それとも田中康夫の“なんとなく、クリスタル”ですか?」
こうした司書の神技を実現しているのが「アブダクション推論」であり、これこそが今井教授の専門である認知心理学、中でも「乳幼児の言語習得」における重要なキーワードなのである。
「アブダクション」とは、論理的に推論する帰納法や演繹法とはまったく違う非論理推論。「仮説形成推論」と訳され、観察したことから仮説を立て、予想していく行為を指す。
アブダクションの推論過程の出発点となる仮定には、直観・ひらめき・想像力といった人間固有の感性を使う。アブダクション推論という能力こそが人類と他の動物やAIなどとの違いであり、言語習得や抽象的思考を可能にしている。さらには科学史に残るような大発見の背後にも、必ずと言っていいほどアブダクション推論があり、それこそが人類に幾多のイノベーションを生み出させ、発展をもたらしてきた、というのが今井教授の見立てだ。
言葉という記号に身体性を与える「記号接地」
「言語習得」と聞くと、旬の話題としてChatGPTを思い浮かべる人も多いだろう。生成AIは今まさに産業界や学問研究だけでなくアートや教育の現場までをも巻き込む一大潮流となっている。
確かに、乳幼児もChatGPTも、同じように「言語を学習」する。では人間とAIの違いはどこにあるのか。
今井教授はそれを4つの項目で示した。
- 人間は知識ゼロの状況から「記号接地」と「ブートストラッピング・サイクル※」によって知識体系を自分で作り上げて言語を獲得していく
- 人間の「ブートストラッピング・サイクル」を駆動させるのは「アブダクション推論」
- AIは最初から膨大な量の情報を与えられないと学習できない
- AIの学習は統計学習であり、「アブダクション推論」はしない(できない)
ここで示された「記号接地」とは認知科学用語で、記号(Symbol:シンボル=文字列/言葉)が実世界での意味につながっている(grounding:接地している)状態を表す。
人間は言葉という記号と実世界での身体感覚や経験とを結び付けて理解している。一方、コンピュータやAIは必ずしもそれが結び付いていない、つまり言葉を「理解」しているわけではないということを「記号接地問題」という。
例えばメロンを食べることのできないAIに、いくら「メロン」の定義や特徴を詳細に教えたところで、メロンの食感や匂い、柔らかさ、食べた時の幸福感などをAIは知りようがないし、それを伝えようもない。人間はメロンという言葉を単なる記号としてではなく、身体的な感覚や経験と共に総合的に理解していて、それを「メロン」という言葉で代替して使っている。
三重苦を乗り越えたヘレン・ケラーの物語で有名な「Water!」のシーン。あれはまさに、サリバン先生によって手のひらに書かれた文字がヘレンの中で記号接地した瞬間を表しているのだ。
※「ブートストラッピング・サイクル」:既に接地した記号の知識から、自らの推論によって未経験の事柄の記号をも接地させ、それにより知識をアップデートし、より洗練された推論を得る、そのスパイラルアップによって乳幼児は言語の体系を自らの中に構築していく、という現象のこと。ブーツ(靴)の履き口にあるつまみ(ストラップ)を自分の指で引っ張り上げるとスムーズに履くことができることから、「自らの力で、自分の状態をより良くする」ということの比喩として、これが言語習得分野での術語となった。
突然バズった今井教授の研究
ところで今井教授の専門分野である認知科学とは、情報処理の観点から知的システムと知能の性質を理解しようとする学問分野で、ChatGPTをはじめとする生成AIチャットボットの登場により、にわかに脚光を浴びている。
今井教授はこれまで、認知心理学・学習心理学・言語心理学をもとに「乳幼児の言語習得」を専門に研究されてきた。その研究所産を一般向けの新書として5年の年月をかけてまとめ、2023年5月に『言語の本質─ことばはどう生まれ、進化したか:今井むつみ/秋田喜美 著(中公新書)』として出版した。するとそれが何と「新書大賞2024」において大賞に輝いたのだ。
「新書大賞」は1年間に刊行されたすべての新書から有識者・書店員・各出版社の新書編集部・新聞記者など百数十名が投票し、その年「最高の一冊」を選ぶというもの。これまでの大賞の9割が社会科学系、1割がサイエンス系という中で、今回初めて言語学系の本が受賞したことも特筆に値する。
潮目が向いていたということもある。
折しも今井教授らが同書の原稿を執筆中だった2022年11月、ChatGPTがリリースされ大きな話題を呼ぶ。公開からわずか5日間で100万人、2ヶ月で1億人と世界最速でユーザーを獲得していく※。
その勢いを目の当たりにした今井教授は恐らく、ご自身の専門の「乳幼児の言語習得」と、ChatGPTなどの生成AIがベースとしているLLM[Large Language Model:大規模言語モデル]などの機械学習との違いを、はっきり示すべきだとの学究的使命感を覚えられたのではないだろうか。これは筆者の推測に過ぎないが、実際、その半年後に発行された同書の中にChatGPTに関する考察も早速組み込まれている。
これらの話題性も手伝ってか、2024年5月現在で発行部数は22万部を突破。ふつう新書や単行本だと1万部以下のケースが一般的とされる中、この部数は驚異的だ。
この「新書大賞」の受賞を受けて、発行元の中央公論新社では特設Webサイトまで作ってしまった。お堅い中央公論とは思えないポップで楽しいページとなっている。
※2024年4月時点の最新動向によると全世界のChatGPTユーザー数は1億8050万人となった
人間とAIの違いとは?
「乳幼児の言語習得」の研究者である今井教授だが、今回の講演で教授が訴えかけていたことは、単に“言語習得”には留まらない、「人間とAIとの付き合い方」への提言であったように感じた。
昨年、米国のIntelligent.comが発表した調査では、9割近くの親や学生が、人間の家庭教師よりもChatGPTのほうが優れていると答え、3割程度の学生がすでにChatGPTに切り替えているという。
しかし今井教授は「ChatGPTに家庭教師を任せることには反対です」と断言する。その趣旨は以下の通りだ。
巷間いわれている、生成AIの回答がしばしば間違っている「ハルシネーション(幻覚)」現象も問題だが、それ以上に深刻な懸念は、学びのプロセスから試行錯誤が失われてしまうことだという。何でもChatGPTに聞いて済ませるというマインドセットからは、「アブダクション推論」の能力は鍛えられない。
確かに「アブダクション推論」は直観による非論理推論だけに間違いも多い。でも、間違えては修正するという試行錯誤を経ない限り、人間は深い学びや発見を通した「生きた知識」を身体化することができないのだ。
もちろんChatGPTなど生成AIは、極めて優秀な「文字列予測マシン」だ。しかし直観的思考力を持たない以上、どこまで行っても既存の知識の再生産しかできない。
今後ビッグデータはどんどん巨大化し、生成AIは回答精度をますます上げるだろう。でも広く流布している知識が誤っていた場合、その誤りを打ち破って全く新しい考えを打ち出すことはできない。
テキスト生成AIの例でいうと、AIによる要約的文章が大量に生成され、それらがまた学習データに利用されていくため、AIが作る文章はどんどん、流布している文章の縮小再生産になっていく。それを人間が「便利で速いから良い」と無批判に受け入れ、既定の情報として利用するようになれば、人類の文化は進化どころか退化の道しかない、と。
終始、柔和な笑顔と穏やかな口調の今井教授だったが、その眼差しには強い懸念が浮かんでいるようだった。
(三代貴子)
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今井むつみ(いまい・むつみ)
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- 慶應義塾大学環境情報学部 教授
平塚江南高校卒業、慶應義塾大学文学部西洋史専攻で学士取得後、教育心理学に興味を持ち社会学研究科に進学、1989年慶應義塾大学社会学研究科後期博士課程修了。社会学研究科在学中、1987年に1年で戻るつもりで渡米。結局6年アメリカに滞在し、1993年ノースウエスタン大学心理学部博士課程を修了、1994年博士号(Ph. D)を取得。
1993年より慶應義塾大学環境情報学部助手。専任講師、助教授を経て2007年より教授。
専門分野は、認知科学、言語心理学、教育心理学。
著書に『ことばと思考』、『学びとは何か〈探究人〉になるために』、『言語と身体性』(共編著)、『ことばの発達の謎を解く』、『親子で育てることば力と思考力』、『言葉をおぼえるしくみ 母語から外国語まで』(共著)、『新・人が学ぶということ 認知学習論からの視点』北樹出版(共著)など多数。近著『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』は「新書大賞2024」に選ばれ21万部を超えるベストセラーとなり、話題となっている。
<主な受賞>
2023年 日本認知科学会フェロー
2018年 Cognitive Science Society Fellow(アジア初)
2007年 日本心理学会国際賞奨励賞
1998年 日本認知科学会学会特別賞
1995年 発達科学教育奨励賞
1994年 APA(American Psycological Association)Dissertation Award(国際心理学会 優秀博士論文賞)
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